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ノート:オスマン家

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「混血の王家」の節について

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“混血の王家”の項目は、丸々削除すべき。 「人種間、民族間での混血を繰り返した王家は稀有であり~」とあるけれど、自国内からばかりお后が出ている国の方が特殊で、大抵は政略結婚のようなもので外国との婚姻が主だ。

オスマン王朝は別に世界帝国化のために王家を混血にしたのではなく、対ヨーロッパキリスト教圏への侵攻が最重要課題だったために結果的にヨーロッパ圏からの後宮に輿入れしたお后が多かったに過ぎない。 たとえば、インド亜大陸への侵攻・支配が最重要課題だったムガル王朝では、モンゴル系出自を自称する帝室がインド土着の土候家と婚姻関係を結んでいるし、ルーシの土候はモンゴル帝国の侵攻以前からポロヴェツやクン等の東方系の勢力との婚姻関係がある。ヨーロッパにしても、ヨーロッパ圏内にほぼ限定されているが、他国の王家や高位貴族との婚姻関係が専らで、あたりまえのように自国民からお后が出るのは20世紀に入ってからだ。 王家が他国との混血なのは稀有どころか当たり前のことだから、オスマン王朝の特質でもなんでもない。--以上の署名のないコメントは、114.151.7.101会話/Whois)さんが 2010年2月1日 (月) 04:29 UTC に投稿したものです。

確かに「混血の王家」という節名と、単に事実として違う部分は削除したほうがいいでしょうね。具体的に指摘すると、
  1. 「オスマン家の出自はトルコ系」は、これは後世の自称に過ぎず実際には系統不明とされる。
  2. 「血統的にはトルコ系とは言えない」というのは、これを理由に反オスマンを唱えた一時のトルコ民族主義者の主張に影響を受けすぎている。
  3. 「このような、人種間、民族間での混血を繰り返した王家は稀有であり、オスマン帝国の世界帝国としての性格を如実にあらわしている。」というのもおっしゃるようにそうとは言えない。
ただ歴代の母后は身分・民族系統にほとんどこだわりが無かったことは事実なので、それは残しておいてもよいでしょう(なお、それはおそらく世界帝国だからではなく、遊牧民的発想から民族主義的観念が希薄だったことと、皇帝権力が絶対だったオスマン帝国では政略結婚によって有力家系の支援を得る必要がなかったからだと考えられます)。したがって、次のような叙述になるかと思います。
「歴代の皇帝は皇后の出自にあまりこだわっていない。オスマン1世とトルコ系女性マル・ハトゥンの間の子であるオルハンを例外として、ムラト1世の母ニルフェル、バヤズィト1世の母ギュルチチェキ、メフメト1世の母オルガ、ムラト2世の母エミネら、歴代の皇帝の母はほとんどがギリシャ系やブルガリア系などのキリスト教徒出身者で、人質や女奴隷として後宮に入った女性であった。オスマン帝国の主要な敵国であった西ヨーロッパ諸国出身の母后もおり、ムラト3世の母ヌールバヌー・スルタンイタリア系、マフムト2世の母ナクシディル・スルタンフランス系であるとされる。」
コメント 特に異論も無いようなので、上記のように書き換えて様子を見ます。--Kurz 2010年2月7日 (日) 11:44 (UTC)[返信]