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ノート:インドネシア独立戦争

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警告:本項はインドネシア独立派とオランダの戦争がテーマです。日本とオランダの戦争や日本のインドネシア占領政策などは別項目で書いてください。蘭印作戦蘭印占領などいかがですか。Trek011 2005年4月26日 (火) 13:25 (UTC)[返信]

「インドネシア独立への政の貢献」といった言い方・評価には強い抵抗感」のソースが見出せませんでした。「ムルデカ」の一部シーンについて同国政府から抗議があったのはインドネシアの習慣や実態に無い描写について修正したもので歴史認識とは無関係のようです。「駐日インドネシア大使の批判」の内容のソースが見出せませんでした。以上の理由から一旦コメントアウトし加筆をします。編集のソースがあればよろしくお願いします。Kanye 2006年11月13日 (月) 19:50 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。同じ理由で私もコメントアウトには賛成です。「『インドネシア独立への日本軍政の貢献』といった言い方・評価には強い抵抗感がある」という箇所は、私が編集した部分だったと思うのですが、出典を明らかにすべきだったと反省しております。出典がどの文献だったか、他にも見解を支持する文献はなかったか、などいずれもソース不足です。引き続き文献探査を試みて、ソースが明らかになってから、またあらためて編集に加わりたいと思います。ただ、最初の「警告」にもありますように、「独立戦争と日本」については記事を分割する必要があろうかと思いますので、新記事での編集参加になるかもしれません。 --Eine kleine 2006年11月15日 (水) 05:16 (UTC)[返信]

出典明示の合意を無視した荒らしが横行しています。冷静なご両人の復帰をお待ちしております。Poor man 2007年2月5日 (月) 11:31 (UTC)[返信]

たしかに出典を明示した方が自身の執筆部分を補強できると思いますので、私もそのように心がけたいと思います。同一箇所の修正・差し戻しを繰り返されている参加者の皆様も、よろしくお願いいたします。私自身も本文の記事にもぼちぼち手を加えていってますが、記事のテーマが「戦争」ですので、その戦争の前と後の事象には極力言及しないつもりです。 --Eine kleine 2007年2月8日 (木) 11:03 (UTC)[返信]

「独立戦争と日本」分割について

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上記の警告にもありましたとおり、そろそろ「独立戦争と日本」については分割が必要であろうかと思います。私自身もその箇所への加筆にかかわっておりますので心苦しいのですが、他の編集参加者のみなさまのご意見もお伺いしたいと思います。分割先の新記事の名前も含めまして、ご意見・ご提案がございましたら、お寄せくださいませ。 --Eine kleine 2006年11月15日 (水) 05:16 (UTC)[返信]

当方なりの提案をさせていただきます。「独立戦争と日本」の見出しとその後半部「日本の敗戦後~」は残し、その前半部分を基にしてまだ項目となっていない祖国防衛義勇軍または郷土防衛義勇軍を新規項目作成されてはいかがでしょうか?インドネシアに大変お詳しく関連するまだ作成されていない「固有名詞」をまず充実されることで、お持ちの構想もより明確になり、より効率的に実現なされるのではないかと期待してのご提案です。Kanye 2006年11月15日 (水) 23:08 (UTC)[返信]
私は、インドネシア独立の契機とその流れに関しては、そこまで詳しいわけではないので、強くは言いませんが、まずは、未投稿関連記事を新規項目で立てるのが先では?今のところ、独立して、新規項目を作っていくよりも、この記事を育てていった上で、分割させていったほうがインドネシアを詳しく知りたい方にとっては有意義だと思います。
私の詳しく知っているEineさんだったら、この記事をより充実させてくれるだろうという期待を込めて。--Tantal 2006年11月16日 (木) 12:42 (UTC)[返信]
KanyeさんとTantalさん、ご提案ありがとうございます。当面は記事の分割を見送り、まずKanyeさんのおっしゃるように、郷土防衛義勇軍(ペタ)などを新規記事として作成したいと思います(とはいえ、準備に時間がかかりそう。年内の投稿が目標です)。また、独立戦争本体の編集につきましては、気がついたことがあれば適宜加筆していきたいと思います。ただ、どうもここ数日、短期間のうちにリバートが飛び交い、編集合戦の様相を呈していますね。履歴にそのような不毛な痕跡が残り、サーバに蓄積されるのかと思うと残念です。問題があれば、ノートでの議論をお願いします。記事が半保護・保護扱いにならないよう、各自に冷静な対応を望むばかりです。--Eine kleine 2006年11月20日 (月) 07:50 (UTC)[返信]
同感です。合意を無視して自説を押し付ける荒らしには手を焼きます。郷土防衛義勇軍(ペタ)などを新規記事作成は荒らしに邪魔されずにマイペースでがんばってください。Poor man 2007年2月5日 (月) 11:46 (UTC)[返信]
Poor manさん、ご意見ありがとうございます。いまのところ、この項目本文の編集に直接参加していらっしゃる方々から、ノートでの議論にご参加いただけておらず、残念なことに、項目本文の編集についてはまだ何も「合意」できていないのが現状だと思います。合意や調整が必要な箇所は多々あるようですし、それらの点について少しずつでも、参加者のあいだで議論をすすめていただけると、有意義な編集が可能になると思います。私の方も、必要でしたら、文献史料や参考図書などの面で情報提供させていただきます。この記事がより良い内容を備え、多くの閲覧者に参考にしていただけるような記事になるよう、みなさまのご協力をよろしくお願いいたします。 --Eine kleine 2007年2月6日 (火) 07:14 (UTC)[返信]

編集に際して合意が必要と思われる箇所

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編集合戦になっている・なりがちだと思われる箇所を以下に挙げます。必要でしたら、小項目を追加してください。 --Eine kleine 2007年2月7日 (水) 08:22 (UTC)[返信]

冒頭文

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「インドネシア独立派と植民地回復の為に復帰したオランダ軍との間で発生した戦争。」と「インドネシア独立派と復帰したオランダ軍との間で発生した戦争。」の2つのあいだで編集合戦になっています。この箇所に関して、私個人はどっちでもいいやという意見です。えんえんと編集合戦を繰り返さなくてもよいのでは。--Eine kleine 2007年2月7日 (水) 08:22 (UTC)[返信]

「4年5ヶ月の戦争で80万人が犠牲になった」との記述について。これは確認が必要だと思いますが、この犠牲者80万人はインドネシア人、蘭印軍の両者を含めた数なのでしょうか。ちなみに、イギリス側にも、ジャワ島上陸から1946年11月28日の完全撤退までのあいだに、1000人以上の死傷者、うち戦死者407名を出しています(マウントバッテンによる終戦処理報告書による)が、これも「犠牲者80万人」に含まれているのでしょうか。 --Eine kleine 2007年2月7日 (水) 08:22 (UTC) --修正・付記。Eine kleine 2007年2月8日 (木) 07:29 (UTC)[返信]

独立宣言

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「現地人の反蘭的活動のために、もともと劣弱であったオランダ植民地軍」との記述があります。たしかに、オランダ領東インド軍(植民地軍)はそれほど強大ではなかったのですが、それはその規模で植民地の治安には十分で、強大な軍隊は必要ではなかったからです。「劣弱」という評価は適切でないと思います。コスト安で効率的な支配を実施できた、それがオランダ領東インド国家でした。現地住民の反オランダ活動も、1930年代後半にはほぼ完全に封じ込まれ、現地住民には穏健な自治権拡大要求運動しか許されない状態でしたので、日本の東インド上陸に際して、活発な反オランダ的活動があったとは言えないと思います。一般のインドネシア人は、強固だと思われたオランダ人の支配があっけなく日本軍の前に崩れ去っていくさまをあっけにとられて見ていた、そんな光景だったのではないでしょうか。 --Eine kleine 2007年2月7日 (水) 08:22 (UTC)[返信]

英軍の占領

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「(この英軍にいたインド人が感銘し、後のインド独立運動に影響を及ぼしたとの意見もある)」との記述がありますが、どなたの意見なのか、こういう場合は出典を明らかにした方が良いと思います。インド独立運動に参加したインド人の回想録とか、ありそうですけどね。 --Eine kleine 2007年2月7日 (水) 08:22 (UTC) --付記。Eine kleine 2007年2月8日 (木) 10:16 (UTC)[返信]

多言語間リンクについて

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現在、多言語間リンクでの各語版Wikipediaへのリンク先について、変更・修正が繰り返されております。英語版では、en:Indonesian National Revolutionen:Politionele acties、どちらをリンク先とするのか、合意が必要であると思います。私自身は、日本語版での記事名が「インドネシア独立戦争」なら、前者が適切であろうと思います。後者(「警察行動」)は、交戦当事国となったオランダから見た、この民族独立紛争の呼称です。より狭義には、1946年11月に締結されたリンガルジャティ協定崩壊後の10万人規模のオランダ軍派遣を「第1次警察行動」、レンヴィル協定締結後の1948年12月19日、ジョグジャカルタを陥落させたオランダの軍事行動を「第2次警察行動」といいます。いずれも、オランダは当初からこの事態を「戦争」ではなく、みずからの支配領域内における「警察力の行使」と位置づけていました。実際は軍事力の行使に他ならないのですが、あくまでオランダはこの事態を国内問題として収束させようとしていたのです。en:Politionele actiesは、「インドネシア独立戦争」全体を対象として捉えるとき、カバーできる事象がやや限定的になるのではないでしょうか。 --Eine kleine 2007年2月7日 (水) 08:22 (UTC)[返信]

現地逃亡日本兵について

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日本の軍籍を離脱して、独立戦争に参加した日本人について「しかしジャカルタの英雄墓地には独立戦争で命を落とした多くの元日本兵が葬られており、またインドネシアでの独立記念日祝典では、今でも日本刀を持ち日本兵の服装をした者を加えて国旗掲揚等が行われている等、一般的には日本兵のインドネシアへの貢献は評価され、受け入れられている。」との文が付け加えられています。その部分の出典がございましたら、適宜脚注機能などを用いて、出典を挙げてください。

ただ、この部分につきましては、日本国内でさまざまな誤解があるようですので、説明させてください。まずジャカルタの英雄墓地に葬られる元日本兵は、日本人としてではなく「インドネシア人」として葬られています。彼らは厚生省(当時)の帰国事業に応じず、インドネシア国籍を取得したインドネシア人です。独立戦争で亡くなった、あるいは戦後に亡くなったジャワ人やミナンカバウ人などと同じ「インドネシア人」として葬られているということに留意してください。

こじつけというか・・・なぜそこまで「日本人」なことを否定したいのか理解不能ですね。元日本兵は「悪」であってもらわないと困るという左翼的思想の方ですか?彼らは結果的に帰化しただけでしょ。あなたは民族と国籍をごっちゃにしてしまってるのでは?実際にスカルノは来日の際に碑まで送ってるではありませんか。あれはインドネシア人に送ってるのですか?218.218.56.252 2007年11月4日 (日) 13:17 (UTC)[返信]

また、独立記念式典で国旗掲揚をしている兵服姿は郷土防衛義勇軍の軍服です(インドネシアの国旗もご参照ください)。自国の民族独立に並々ならぬ自尊心をもっているインドネシア人が、国家でもっとも儀礼性の高い独立記念式典において、他国の軍服姿を容認するわけがない、というのはわたしの観察なのですが、こうしたインドネシアの国家儀礼については関本照夫「村と国家行事」、『東南アジアからの知的冒険』、リブロポート、1986年、あたりに詳しい分析があります。

軍服については確認が必要ですが、記念日にインドネシア人が日本刀を持ち、日本の歌を歌ったりする動画はyoutubeあたりにありますね。218.218.56.252 2007年11月4日 (日) 13:17 (UTC)[返信]

それと「一般的には・・・評価されている」は、もっとも出典が必要な箇所だと思います。わたしの勘違いでなければ、一般のインドネシア人は独立戦争に日本人が参加した話のことをあまり知らないのではないかと思います。学校の教科書では「いかにインドネシアの人民(そして国軍)がオランダ・イギリスと勇敢に戦い、独立をみずからの手で勝ち取ったか」が述べられています。「独立戦争に参加した日本人」に注目するのではなく、「暗黒の日本軍政時代」(民族主義運動の抑圧、米の強制供出、資源・人員の調達、農民の窮乏化、郷土防衛義勇軍の反日蜂起事件、などなど)の方に重点が置かれて教育されていたと思いますので、とても「一般的に・・・評価されている」とはいえないのではないでしょうか。

現在は知れ渡ってますよ。以前は他民族の助けを恥として隠してた部分もありますが。映画まで上映されましたしね。どうもあなたは中国や半島と同じに考えてしまう傾向にあるようですね。インドネシア人の対日意識も良い結果ばかり出るのです。そんな日本が暗黒の時代をもたらしたという教育であれば、中韓のような反日になってしまうでしょ。218.218.56.252 2007年11月4日 (日) 13:17 (UTC)[返信]

以上、常日頃から感じている疑問なども交えて意見を述べさせていただきましたが、「日本人のインドネシア独立への貢献」は、Wikipediaでも編集合戦になりやすそうな箇所であると思いますので、逐一出典を明記して記述していただいた方が、無用の混乱を避けられるのではないかと思います。--Eine kleine 2007年10月23日 (火) 04:56 (UTC)[返信]

これから徐々に出典を出して、訂正させていただきます。218.218.56.252 2007年11月4日 (日) 13:17 (UTC)[返信]

修正作業をお待ちしたいと思います。ただ、2点、お願いがあります。まず、この記事は「インドネシア独立戦争」についての記事ですので、その前と後の事象については、必要以上に内容が拡散しないようお願いしたいと思います。日本の敗戦後にインドネシア独立戦争に参加した日本人(軍人・軍属)について詳細に記述していただけるということでしたら、インドネシア残留日本兵という新記事を執筆していただいた方がテーマを集約できるのではないかと思います。第2に、編集者の同一性を保持するために、アカウントを取得していただけないでしょうか。IPユーザのままですと、編集のたびにIPが変更されていたりして、どなたの編集なのかがわからずにまぎらわしいことがあります。以上の2点のお願いをご考慮いただけますよう、よろしくお願いいたします。--Eine kleine 2007年11月4日 (日) 23:22 (UTC)[返信]

2007年9月12日 (水) 01:36での改訂について

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今回、以下の点につき改訂作業を行いました。

節順の変更と整理

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節順はWP:GTLに従う順序にしました。また、本文は「独立戦争前(独立宣言から改名)」「独立戦争の推移」「独立戦争後のインドネシアとオランダ(戦後の行方から改名)」「日本とインドネシア独立戦争(日本の関与から改名)」の節順としました。前の版にあった独立戦争時に関する各項目は「独立戦争の推移」の中に入れました。

脚注部分への転記

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前の版までにあった記述のうち、本筋にとってやや脇道に逸れるような箇所(皇紀2605年など)を脚注部分に転記しました。この記事はインドネシアの独立戦争についての記述が主要であり、その戦争の「前」と「後」とのバランスに配慮する必要があると思います。

重複部分などの削除

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「独立宣言」と「日本の関与」に記載されていた現地逃亡日本兵についてはその一方から削除しました。また、郷土防衛義勇軍についての詳細な記述は別項に投稿済みですので、重複部分を削除しました。また、出典が必要と思われる箇所については、出典タグを付けております。--Eine kleine 2007年9月12日 (水) 01:37 (UTC)[返信]

ここ数日の編集合戦について

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本文の「日本人とインドネシア独立戦争」の節について、ここ数日、短い期間内にリバートが繰り返されているようですので、不毛な履歴が蓄積されるよりも、こちらのノートで冷静な議論を経た上で、本文の記述を安定させた方がよいのではないでしょうか。IPユーザの方には、この機会に是非、ログインユーザとなられることを望みます。

個人的には、映画ムルデカ17805についてはすでに別記事として掲載されているので、こちらで詳述する必要はないと思います。詳述したい点があれば、ムルデカ17805に加筆していただければよいのではないでしょうか。---Eine kleine 2008年7月30日 (水) 06:38 (UTC)[返信]

8月15日に日本が降伏したことによって

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「8月15日に日本が降伏したことによって」とありますが、より正確には「8月15日にポツダム宣言の受諾と戦争の終結を日本国民及び国外にに発表したことによって」ではないでしょうか? 法的な意味での日本の降伏は1945年9月2日であるのは明らかです。--223.135.242.81 2013年9月17日 (火) 23:40 (UTC)[返信]

厳密にはそうですが、一般的には8月15日といいますね。8月15日をもって大方の日本軍が降伏したことは事実であってどの時点のどの状況に主眼を置くかといったことで多少変化することもあるでしょう。このページにとってよい形になるよう記述してくれるのならばお願いいたします。--Chichiii 2013年9月18日 (水) 15:30 (UTC)[返信]