ノート:アンリ・ベルクソン/削除
このページはアンリ・ベルクソンの過去の版について削除依頼の議論内容を保存した物です。
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関連項目 : Wikipedia:削除の過去ログ、Wikipedia:削除の過去ログ 2004年2月、Wikipedia:削除記録/過去ログ 2004年2月
削除依頼での議論
- アードルノ アンリ・ベルクソン - 内容がほぼ書籍からの引用のみで、引用が「主」になっていたため、問題だと思います。削除をお願いします。Tsk 13:58 2004年1月17日 (UTC)
- 僕には同一性の確認ができませんが(書籍からの引用であるため)、文中で示唆されている通りの引用であれば、削除が適当だろうと思いました。詳細は同記事のノートに。Tomos 22:11 2004年1月17日 (UTC)
- 同じIPからの投稿で、アンリ・ベルクソンも問題だろうと思いましたので依頼します。詳細はノート:アンリ・ベルクソンに。Tomos 19:53 2004年1月20日 (UTC)
- 「アードルノ」については著作権侵害の虞を理由として削除しました。「アンリ・ベルクソン」については、記事が引用からなっていることよりも、どこからどこまでが引用かわからない、引用元が特定可能な形式で書かれていない、ということのほうが大きな理由と思われました。著作権法上の引用の要件をみたしていないので削除に賛成、という結論に変わりはありませんが。T. Nakamura 06:42 2004年1月30日 (UTC)
ノート:アンリ・ベルクソンより
著作権問題
この記事は「近代性の構造」という本(今村仁司著のものでしょうか)からの引用からなるものでしょうか? ノート:アードルノの件と同じ理由で一旦削除する方がよいかも知れません。
Tomos 16:47 2004年1月20日 (UTC)
削除依頼にも書きましたが、削除後の参照用にここにも書きます。この場合、記事が引用からなっていることよりも、どこからどこまでが引用かわからない、引用元が特定可能な形式で書かれていない、ということのほうが大きな理由と思われました。著作権法上の引用の要件をみたしていないので削除に賛成、という結論に変わりはありませんが。
T. Nakamura 06:46 2004年1月30日 (UTC)
- つい最近になって気がつきましたが、つまり、「ウィキペディア全体」が単一の著作物だとすると、質的にも量的にも引用が従、ということが言えるので、その点では問題がないと言える可能性がある、ということですね。
- それに対して、個別の投稿や記事、ページなどが著作物の単位であると考える場合には、引用が従とは言えないのでその点からも問題になる可能性がある、と。Tomos 01:42 2004年1月31日 (UTC)
ご指摘の点は一般論としておっしゃるとおりで、例えばマイケル・ムーアのときはそういう意図で申し上げました。この場合も、もちろんそういう議論は可能です。
ただ、私の見解としては、「ウィキペディア全体」を一つの著作物とした場合には、ベルヌ条約の百科事典の理解に牴触するし、常識的な理解でもないので、裁判のとき等にあまり認められないのではないかと思います。
それでは、ここでの私の意図はどういうものだったかというと、「どこからどこまでが引用かが分からないと、引用の主従の判断が不可能であるから、削除すべきかどうかの判断もできない。主従を理由とするよりも、それ以前にどこからどこまでが引用かが分かるように特定していない(しかも、引用元の記述も不正確である)時点で、著作権法32条の要件をみたしていない、としたほうがこの事案に即しているし、原典にあたる必要がない」ということでした。説明不足をお詫びします。
ちなみに、引用の判例の主従の判断の基準には若干バラつきがあることに気づきました。この点については、そのうち引用に書きたいと思います。
T. Nakamura 22:56 2004年2月1日 (UTC)
削除しました。T. Nakamura 04:11 2004年2月10日 (UTC)
- 現在のものは削除後の再出発版ということですね (^^)/。Kadzuwo 19:07 2004年3月18日 (UTC)