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ノート:アンドレイ・タルコフスキー

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2006/9/24の改稿について

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今回(2006.9.24)、いろいろ書き足すと同時に削ったところがあるのでその理由を書いておきます。

まず、タルコフスキーが「ロシア的」という記述がありましたが、 ==作品の評価==の項目にも書いたとおり、コンチャロフスキーが「彼はロシア的ではない」という 指摘を行っています。この指摘は結構当たっていると思われましたので、記述を変えました。

それから、

「ただし、タルコフスキーは自身の日記のところどころで俳句(Haiku)を「Hokku」と 誤って表記しており、その日本理解には一考の余地があることを伺わせる。」

この部分はばっさり削除しました。「俳句」は正岡子規がそれまでの「俳諧の発句」を独立させて作った造語なので 「発句」という呼び方は間違いではありません。それどころか、かなり良く知っていたような気がします。 --2006年9月24日 (日) 04:57 おーた(署名を追記おーた 2007年11月14日 (水) 13:15 (UTC))[返信]

**のタルコフスキー

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よく、「東洋のタルコフスキー」とか「日本のタルコフスキー」とか、賞賛のされ方を良く眼にしますが、「タルコフスキー的映画」を紹介するとしたら なにがありますか? 自分はかなり田舎にすんでいるので、小さなレンタルビデオ屋には、そんな映画は置いてありませんから、紹介されてもどうせ見れないんですが・・・。某掲示板でやればいい話なんですが、自分はあまり映画を見てませんし、映画を見る眼も無いので、的を得ているかどうかはわかりません。

達磨はなぜ東へ行ったのか?」(韓国)、「月山」(日本、村野鐵太郎)、「本覚坊遺文、千利休」(熊井啓) 、くらいか・・・。別にアジアに限らず、「神秘主義系の映画すべて」という事になっちゃうかもしれないんですが・・・。 --2007年11月13日 (火) 15:58 61.208.183.235(署名を追記おーた 2007年11月14日 (水) 13:15 (UTC))[返信]

佐々木昭一郎NHK、『四季・ユートピアノ』、『川の流れはバイオリンの音』等)も、だそうです。 某掲示板は「嫌い」で見たりしない人もいますからね・・・。--61.208.183.235 2007年11月14日 (水) 18:23 (UTC)[返信]

映画じゃないですけど、長谷川等伯の『松林図』(東京国立博物館)や浦上玉堂の『凍雲篩雪(とううんしせつ)図』、『良寛さん』なんかも、タルコフスキー的と言われてますね。--61.208.183.235 2007年11月17日 (土) 07:15 (UTC)[返信]

独自研究について

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少し考えたのですが、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触しているものとして61.208.183.235さんの本文追加記事を削除させていただきました。もっとも、現時点でのタルコフスキーの記事には独自研究が色々残っておりますので、ことさらに61.208.183.235さんの追加部分だけが問題なわけではありません。私が1年ほど前に手を入れた部分にも、問題点は含まれていると思います。Wikipediaが検証可能な出典明記(Wikipedia:検証可能性)に厳密になろうとしている昨今の情勢の中では、いずれこの記事もきちんと脚注をつけて出典明記を行い、出典の無い独自研究とみなさざるを得ない文章は削除するといった作業に入らなくてはないでしょう。出典の無い独自研究っぽい文章はとりあえず削除するということで了解いただければと思います。

もちろん信頼できる文献を出典にした文章であることを示していただければ、どんどん編集で書き込んでくださればと思います。--おーた 2007年11月14日 (水) 14:10 (UTC)[返信]

昨日の書き込みは、「独自研究」と言える代物ではないですよ・・・。あまりに「当たり前すぎて」だれも、そんなことに「典拠」をのせないですよ。たとえば「・・・・、蝋燭と雪と無重力性との三位一体が、『ノスタルジア』の”驚くべき最終ショット”にも反映され、タルコフスキーの空間を、安易な抒情とは無縁の深い悲劇性で染めあげているのである。・・・云々」(『タルコフスキー、好きッ!』p.153 松浦寿輝 ・・・「呆れた題名」の本で申し訳ないんですが・・・。) 「ノスタルジア」のラストは「ソラリス型」ですし、「ソラリス」も「鏡」も「ストーカー」も「僕の村は戦場だった」も、ラストは「もれなく衝撃的」だと思いますよ。誰にとっても・・・。明らかに「ソラリス」の「真似」をした「トリアー」の「奇跡の海?」のラストは・・・・・、です。(これは「独自研究」ですが・・・。)--61.208.183.235 2007年11月14日 (水) 18:15 (UTC)[返信]

そもそも、あの「ラストの衝撃」が感受されるには、1時間半なり2時間、あの「タルコフスキー時間」に’soaked’されることが「必要」なんですよ・・・。--61.208.183.235 2007年11月14日 (水) 20:57 (UTC)[返信]

61.208.183.235さんの編集履歴がどれほどのものか分らないのですが、文芸やアート作品の「解釈」はWikipediaでは難しい問題なのです。「こんなの当たり前じゃん」と思って書き込んでも「たわけ。その解釈は間違いじゃ」みたいな反応がどこからか出てきて「作品の正しい解釈」を巡る編集合戦が往々にして起きます。そういうこともあって、Wikipediaでは、「自分の解釈を書くのではなく、信頼できる出典に基づいて書く」というアプローチをとります。ある記述に異議が唱えられた場合、適切な出典を示せない場合は削除されることも認められています。Wikipedia:検証可能性を今一度熟読くださればと思います。
松浦寿輝さんを出典に使いたければ、松浦さんの文献を出典として記述してください。『タルコフスキー、好きッ!』は私も持ってますが、それなりの著者を揃えた良い本なので、題名で卑下することはありません。ただ、
  • しかし、その全編を注意深く追って来た者には、作品の最後において、タルコフスキー映画の『お約束』ともいえる、『を揺さぶる衝撃のラスト』が用意されている。
は、松浦さんの文章の要約になっていないし、百科事典的記述でもないですよね。--おーた 2007年11月15日 (木) 12:45 (UTC)[返信]

そんなにリジッドになること無いと思いますけど・・・。「あまりに一般的常識すぎて」だれもそんな事取り上げてませんよ・・・。--61.208.183.235 2007年11月15日 (木) 14:24 (UTC)[返信]