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ノート:アル=アーディル

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1183年から1186年までのアレッポの統治者

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現在の版によると、アーディルがアレッポの統治をサラーフッディーンに所望し、サラーフッディーンがこれを認めたため、1183年から、その後サラーフッディーンが息子のマリク・ザーヒル・ガーズィーに与える1186年まで、アーディルがアレッポを統治したという内容が、Ibn al-Athir に書かれている、とのことです。

たまたま見つけたのですが、この件に関し、Ibn Khallikān の Wafayāt (De Slane の英訳版)には矛盾した記述があります。サラーフッディーンの弟、ヌールッダウラ・シャーハンシャーの息子、タキーッディーン・ウマルの項には、同人がアレッポをサラーフッディーンに所望し、これが認められたが、のちにアレッポがザーヒル・ガーズィーに与えられることになったので、同人は非常に傷ついた、という内容の記載があります。そして、アーディル・アブー・バクルの項には「アレッポを統治した」という話は一切ありません。その一方で、ザーヒル・ガーズィーの項には、アーディルがアレッポを所望したため、サラーフッディーンがこれを認めたと書いてあります。

1183年から1186年までアレッポを統治していたのがタキーッディーン・ウマルとアーディルのどちらであったのか、私にはよくわかりませんが、タキーッディーン・ウマルの項の記載が詳細で情報量に富むのに対し、ザーヒル・ガーズィーの項の記載は単にアーディルの名前に言及があるだけなので、なんとなく後者の記載が誤り(イブン・ハッリカーンの誤解か写本製作者の写し間違いなのかは不明ですが)かなという気がします。

いずれにせよ、この部分の記載に関しては資料批判を踏まえた研究者による二次的研究によるサポートが必須、と思います。--ねをなふみそね会話2019年4月3日 (水) 07:30 (UTC)[返信]

執筆者です。ざっくり確認した限りですが、HillenbrandのThe new Islamic dynastiesでは1183年から86年までのアレッポ統治はアーディルとの記述になっていますし、Eddéも、サラディンにとってのアーディルの重要性からこの要請を断れなかったであろう旨述べています。現状の記述に出典を追加しておけば問題ないように思いますがいかがでしょうか?--ToquzOguz会話2019年5月9日 (木) 02:42 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。ご指摘の通り、参考文献を追加して少し加筆し、検証を終えました。追加した参考文献も、本項の参考文献に書名が挙がっている Humphreys (1977), From Saladin to the Mongols The Ayyubids of Damascus, 1193-1260 を参照していました。イブン・アスィールやイブン・ハッリカーンはいずれも13世紀の学者で歴史上の人物ですから、これらのみに依拠している記載は、いずれ二次資料による出典の補強が必要かもしれませんね。--ねをなふみそね会話2019年5月14日 (火) 06:05 (UTC)[返信]