ノート:アディアベネ王国
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(ノート:アディアバネ王国から転送)
ページ名について
[編集]Adiabeneはアディアベネであって、アディアバネは誤植であると思われます。「アディアベネ王国」への改名を提案します。--Jutory(会話) 2022年8月27日 (土) 05:22 (UTC)
- ページを移動しました。--Jutory(会話) 2022年9月3日 (土) 13:16 (UTC)
「主要な王」節の人名 アフラーテス は誰?
[編集]「主要な王」節の末尾(現行版では同節の小見出し「関連する人物」節の末尾)に載せる「アフラーテス」という人物が何者か、またアディアベネ王国とどう関係しているのか、出典註なども見当たらず分からないのですが、ご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか? この記事の初版である 2006-03-22 06:54:30 の版 の時点から、赤リンク「アフラーテス」として「主要な王」リストの一番下に存在していたようです。--Yumoriy(会話) 2023年8月14日 (月) 12:19 (UTC)
- 報告 素人がWEB検索してみたところでは(私自身はメソポタミア古代史にまったく不案内です)、木村信一 氏の紀要論文「景教異端とそのシリヤ語Q'NŌMĀに関する一考察」(1966年)[1]の註33(p. 39)で、本文p. 34の記述 「次はシリヤ教会教父の時代であるが、この時代のq'nōmāの用例をみると、最初の教父はAphraates (A.D.四世紀頃) であるが、[...]」 に見える人名「Aphraates」に註して「アフラーテス」とカナ表記しているのが見つかりました。当該の註33は、「アフラーテスはネストリアン教会より『ペルシャの聖者』として尊崇されており、修道僧で、また同教会の主教でもあった。[...] 三百数十冊にのぼる著作があると伝えられるが、現存しているのは23部で、[...]」 と記しており、“ペルシャの聖者”(≒ペルシャの賢者)という尊称や、現存する著述の数(「23部」)、活躍時期(「A.D.四世紀頃」)などの合致から推して、この木村論文で「アフラーテス(Aphraates)」とカタカナ表記されている人物は、日本語版ウィキペディアに「 アフラハト(英: Aphrahat, 270年-345年)」として立項されている人物 を指すのではないか、と思われます。
だとすると、「主要な王」節にあるアフラーテス=Aphraates=Aphrahat=アフラハト(=当該記事に「メソポタミアの北部アディアベネのシリア教父」)、ということになるのですが、この推測は妥当でしょうか? 詳しい方のご教示を得たいです。--Yumoriy(会話) 2023年8月14日 (月) 12:48 (UTC)
- コメント 正直全く立項時の記憶がないのですが、初版作成者が私なので一応コメントです。「多分」という範疇でしか言えないのが申し訳ないのですが、初版立項時と同時期の英語版の記事でRulers of Adiabeneのリストの中にAphraates c. 310があるのを見て当時記載したのではないかと思います。ですので、アフラーテス自体についての情報は現状持っていないですが、日本語版の記述自体は出典を持たない信頼性の低い記述として削除してしまうのがまずは穏当だと思います。--TEN(会話) 2023年8月15日 (火) 14:51 (UTC)
- 返信 (TENさん宛) コメントありがとうございます。そして何より、初版作成(立項)くださったことに感謝申し上げます。また、英語版Wikipedia記事との関係、まったく考えていませんでした!
- ご教示の英語版Wikipediaの過去版[2]を見てみると、「Rulers of Adiabene(アディアベネの君主たち?)」節の「11. Aphraates c. 310[3]」にリダイレクト「en: Aphraates」(いずれも上掲木村論文[1]に登場する“アフラーテス”の原綴り)への内部リンクが設定されており、項目「en:Aphrahat」に転送されます。転送先のAphrahat項は日本語版のアフラハト項と同一人物(“the Persian Sage”すなわち“ペルシアの賢者/聖者”と呼ばれるアフラハト)の記事であり、また、英語版の「Aphrahat」項に「(c. 280–c. 345; Syriac: ܐܦܪܗܛ Ap̄rahaṭ, [...] Ancient Greek: Ἀφραάτης, and Latin Aphraates)」とあるので、アフラーテスは
古代ギリシャ語ラテン語での名前、アフラハトはシリア語(古典シリア語)での名前、ということのようです(記事本文には、Aphrahatは古代ペルシア語(時期的にはパフラヴィー語?)の名前Frahāt のシリア語版であり、現代ペルシア語のFarhād に相当する、との記述もありました[4])。
以上から、アフラーテス(Aphraates)=アフラハト(Aphrahat)である、と考えて間違いなさそうです。情報とても役立ちました。ありがとうございます!--Yumoriy(会話) 2023年8月16日 (水) 12:51 (UTC)- 報告 両者を同一人物と確定できたものと考え、項目「アフラーテス」を アフラハト へのリダイレクトとして作成しました。
情報 また、教父#主なシリア教父 項に「アフラアテス(アフラハト) 270年、280年 - 345年以降没」 との記述が存在することに気づきました。名前の「アフラアテス」に設定された内部リンクは、アフラハト項へのパイプ付きリンクとなっていました。--Yumoriy(会話) 2023年8月17日 (木) 04:34 (UTC)
- 報告 両者を同一人物と確定できたものと考え、項目「アフラーテス」を アフラハト へのリダイレクトとして作成しました。
- 返信 (TENさん宛) アフラーテスについては「出典を持たない信頼性の低い記述として削除してしまうのが まずは穏当」とのコメント、おっしゃるとおりだとは思います。ただ、私が眺めてみたところ、アディアベネやパルティア関連(サーサーン朝ペルシアに先行する時代)の記事項目(とりわけ人物関係の項目)は、Wikipedia:検証可能性 を厳格に適用すると どれも記事内容がほとんどなくなってしまうのではないか… というのが正直な印象でした。
ですので個人的には、現行アフラハト項にある「メソポタミアの北部アディアベネのシリア教父」[7]という記述を信じて、どなたかがいずれ「アディアベネの」に出典を付してくださることを期待して、本項の「関連する人物」節にアフラーテス/アフラハトを残しておきたい気がいたします。発展途上の百科事典として情報量を維持し、将来の補筆と充実のきっかけとするために。(現行版ではアディアベネの「主要な王」ではなく、アディアベネに「関連する人物」として置かれた人名なので、アフラーテス=アフラハトが本当に“アディアベネの”シリア教父であったなら、記載自体は妥当と言えます。)--Yumoriy(会話) 2023年8月16日 (水) 13:34 (UTC)
- 返信 編集ありがとうございます。古代・中世ペルシア史関連記事の原状はその通りだと思います。ただ、正しい情報であれば要出典でもとは思うのですが、シンプルに間違っているものはとりあえず消してしまいたい派です。もちろん関連する人物に残すというのでも良いと思います。参考になるかどうか微妙ですが、一応簡単に調べてみました。アフラハトに関しては以下のような情報が見つかりました。
- 武藤慎一著、三代川寛子編「シリア文学を代表する詩人ニシビスのエフライムの聖書解釈」『東方キリスト教諸教会 研究案内と基礎データ』p. 209 注釈2番に武藤氏が過去に発表したアフラハトについて言及のある論考の一覧が紹介されている(以下に列挙)
- 武藤慎一「「ペルシアの賢者」アフラハトの解釈学」(1997)
- 武藤慎一「アフラハトにおける神の下降と人間の上昇 --解釈学的観点から--」(1999)
- 武藤慎一「四世紀イラクにおける地域文化としてのキリスト教 --そのマイノリティーとしての自己意識--(2004)
- 武藤氏はアフラハトとアディアベネの関係性について言及しておらず、同氏の書きぶりからは、アフラハトの地理的特筆性は、サーサーン朝の領内(ローマ帝国外)で活動したことであるように見えます。また、アフラハト自身はメソポタミアに強い地元意識を持っていたこと、「ペルシア人」に対して同胞意識が希薄であったことも言及されています。加えて、現在の英語版Wikipediaのリンクからアフラハトの生涯について言及した出典として以下を見てみました
- Kalariparampil Joseph, "Aphrahat the Persian Sage"(2014)
- この記述によると、彼はキリスト教に改宗してエデッサで隠修士(hermit)になり、その後アンティオキアに移ったが、後世では通常「ペルシアの賢人」としてしか知られていなかったとあります。そしてモースル近郊の聖マタイ修道院(en:Mor Mattai Monastery)の司教(bishop)であると「されることもある」とあります(Aphrahat is sometimes identified as the bishop of the monastery of Mar Mattai, near Mosul Mesopotamia.)。モースル近郊の修道院の司教だとしたら確かに地理的にはアディアベネにあたりますが、どの程度の確度なのかはよくわかりませんでした。ただ、アフラハトについての言及だと、基本的にはまずサーサーン朝支配下のメソポタミア・シリアで活動した人物としてまず言及されるようにも見えます。--TEN(会話) 2023年8月17日 (木) 14:34 (UTC)
- 情報&調査ありがとうございます。まさに挙げてくださった「『ペルシアの賢者』アフラハトの解釈学」(武藤慎一, 1997)[8]を見つけて、面白がって読んでいるところでした。他にもWEB上で読める武藤さんの論文、あるのですね。読むのが楽しみです。
それで、素人がネット情報を検索した感触としては(書籍には当たっていません)、現在のところ私もTENさんと近い印象を持っています。旧アディアベネ王国領と思われるアフラハトが学んだ?生まれた?地名(モースル Mosul など)に言及する文章はいくらか見かけるものの、その典拠(信頼度)はよくわからず、またそれ以外にアディアベネ王国と関連付ける情報は見当たらない感触です。おっしゃるとおり、「基本的にはまず サーサーン朝支配下のメソポタミア・シリアで活動した人物」としてアフラハト=アフラーテスは言及されているように見えます。(正確には、私は地理にまったく不案内なので 登場する地名をGoogleマップと見比べて旧アディアベネ王国の領域内だったと考えてよいものか判断に迷っていたのですが、TENさんのコメントで、あ、その理解でよいのだな、と理解しました。)--Yumoriy(会話) 2023年8月18日 (金) 03:59 (UTC)- 返信 すみません、モースルに関しては、歴史地図などではアディアベネの領域みたいな感じで書かれている場合が多い地域にあるというだけなので、果たしてこれを「アディアベネの」と形容していいのかどうかは私も自信は持てないです。検索する範囲では、少なくとも英語圏ではAphrahat of Adiabeneという表現自体はあるようですが、学術的にどうなのかは判別が付かず。関連する人物として入っているくらいが実際適切なのかもしれないですね。逆にアフラハトの記事でアディアベネのシリア教父と言い切っているのは、結構強力な出典が見つからない限りは修正した方がいいのかもしれないとも思います。--TEN(会話) 2023年8月20日 (日) 16:42 (UTC)
- 返信 (TENさん宛) 地名「モースル」についてありがとうございます。確信はないが、歴史地図などで見かける“旧アディアベネ王国の領域”とされる範囲内に位置している ように見える、とのこと了解です。それでも参考になります。(私はそもそもアディアベネ王国の領土(版図)というのが歴史的にどう推移したのか、どういう史資料が存在するのか、まったくわかっていません…。ウィキメディア・コモンズにある地図群[9]からなんとなくイメージしているだけ、の状態です。)
情報 とりあえず、WEB上で「アフラハトは現在のイラクのニネヴェ・モスル地域に生まれ、4世紀前半に活動しました。」 と、どういう典拠に基づいてかは不明ですが、アフラーテスの出生地を明言している日本語資料は 教皇ベネディクト十六世の一般謁見演説だけ[10]、に見えます。(文中にある「ニネヴェ」はニネヴェ(Nineveh)ニネヴェ、「モスル」はモースル、でしょうか。)--Yumoriy(会話) 2023年8月22日 (火) 14:31 (UTC)
- 返信 (TENさん宛) 地名「モースル」についてありがとうございます。確信はないが、歴史地図などで見かける“旧アディアベネ王国の領域”とされる範囲内に位置している ように見える、とのこと了解です。それでも参考になります。(私はそもそもアディアベネ王国の領土(版図)というのが歴史的にどう推移したのか、どういう史資料が存在するのか、まったくわかっていません…。ウィキメディア・コモンズにある地図群[9]からなんとなくイメージしているだけ、の状態です。)
- 返信 すみません、モースルに関しては、歴史地図などではアディアベネの領域みたいな感じで書かれている場合が多い地域にあるというだけなので、果たしてこれを「アディアベネの」と形容していいのかどうかは私も自信は持てないです。検索する範囲では、少なくとも英語圏ではAphrahat of Adiabeneという表現自体はあるようですが、学術的にどうなのかは判別が付かず。関連する人物として入っているくらいが実際適切なのかもしれないですね。逆にアフラハトの記事でアディアベネのシリア教父と言い切っているのは、結構強力な出典が見つからない限りは修正した方がいいのかもしれないとも思います。--TEN(会話) 2023年8月20日 (日) 16:42 (UTC)
- 情報&調査ありがとうございます。まさに挙げてくださった「『ペルシアの賢者』アフラハトの解釈学」(武藤慎一, 1997)[8]を見つけて、面白がって読んでいるところでした。他にもWEB上で読める武藤さんの論文、あるのですね。読むのが楽しみです。
報告 ノート:アフラハト ページに、当ノートでのTENさんによる情報提供について、見出し「ノート:アフラハト#参考:関連した議論が別項目のノートにあります」として案内を書き込みました。いつかどなたかが文献を使ってアフラーテス=「アフラハト」項目の記述を充実させてくださるとよいな、と思います。--Yumoriy(会話) 2023年12月12日 (火) 12:36 (UTC)
脚注
- ^ a b 木村信一「景教異端とそのシリヤ語Q'NŌMĀに関する一考察」『桃山学院大学キリスト教論集』第2巻、桃山学院大学人文科学研究所キリスト教研究室、1966年3月、23-41頁、ISSN 0286-973X。
- ^ 英語版ウィキペディア「Adiabene」項目の 2006-02-27 01:59 (UTC) の版(日本語版初版立項当時の英語版)。
- ^ なぜAphraatesに「c. 310(西暦310年ころ)」と添えられているのかは不詳(アフラハトの推定生存年間内ではある)。直前にある第10番目の人物(ruler)は「10. unknown 200-c. 310」となっている。“c.”はCircaの略。
- ^ 「The name Aphrahat is the Syriac version of the Persian name Frahāt, which is the modern Persian Farhād (فرهاد).」、英語版ウィキペディアAphrahat の現行版(20:31, 18 March 2023 (UTC) の版)、「Life, history and identity」節。
- ^ 瀧口美香「神の家を支える柱 : カラート・セマン 柱上行者シメオンの聖堂について」『明治大学人文科学研究所紀要』第71巻、明治大学人文科学研究所、2012年3月、1-26頁、CRID 1050013109569357440、hdl:10291/14275、ISSN 0543-3894。
- ^ アフラーテスに関する当該記述の典拠は、Robert Murray, Symbols of Church and Kingdom (Cambridge, 1975) と Jean Parisot. ed., Aphraatis Sapientis Persae Demonstrationes. Patrologia Syriaca I, II (Paris, 1894, 1907). となっている(註36参照)。
- ^ 「アフラハト」の 2023-08-12 09:52:59 (UTC) の版。
- ^ 武藤慎一「「ペルシアの賢者」アフラハトの解釈学 (The Hermeneutics of Aphrahat The Persian Sage)」『基督教学研究』第17巻、京都大学基督教学会、1997年12月、77-87頁、CRID 1390854717495001216、doi:10.14989/268463、ISSN 0387-5091。
- ^ Category:Maps of Adiabene - Wikimedia Commons https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Maps_of_Adiabene
- ^ 教皇ベネディクト十六世の117回目の一般謁見演説 : ペルシアの賢者アフラハト | カトリック中央協議会 https://www.cbcj.catholic.jp/2007/11/21/3874/
おそらく、教皇ベネディクト十六世 著、カトリック中央協議会司教協議会秘書室研究企画 訳『教父』カトリック中央協議会〈ペトロ文庫〉、に収録されているテクスト?