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ノート:ふたりのロッテ

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曖昧さ回避について

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曖昧さ回避部分を消去される方がいらっしゃいますが、本ページから曖昧さ回避の記述部分を取り除くのであれば、専用の回避ページとして「ふたりのロッテ (曖昧さ回避)」が必要となるのでは?「ふたりのロッテ」はケストナーの原作を元に多数の作品が製作されています。このような場合、オペラ座の怪人のように曖昧さ回避の部分を作成すべきです。また、「曖昧さ回避」はウィキペディア内の幾つかの曖昧さ回避専用ページを見ていただければわかります(Category:曖昧さ回避)が、タイトルが同一か否かは関係ありません。一般にどう認識されているかを焦点として曖昧さ回避ページが作成されています。--ponpon 2006年9月2日 (土) 09:10 (UTC)[返信]

テレビアニメ版は別記事ですが、本記事よりリンクがありますし、ミュージカル版は記事に含まれています。映画に関しても、独立した記事は存在しない以上、赤リンクだらけの曖昧さ回避は必要ないと思います。--SINOBU 2006年9月2日 (土) 09:18 (UTC)[返信]

赤リンクを嫌うのであれば、リンク先を削ればよいのでは?また、本記事はあくまでもエーリッヒ・ケストナーの小説がメインの内容の記事であり、ミュージカルの記述はあくまでも派生した部分だと思います。以前の「オペラ座の怪人」ページでもそうでしたが、原作そのものは有名であっても、原作そのものより周辺作品の方が目に触れる機会が多い作品ですから、検索してくる人のために「曖昧さ回避」部分はあってしかるべきと思います。事実、曖昧さ回避ページのカテゴリを見る限り、本ページの曖昧さ回避部分は、必要であり、削除する理由もない情報だと思います。--ponpon 2006年9月2日 (土) 09:26 (UTC)[返信]
曖昧さ回避を使うという意見ですが、曖昧さ回避の使い方を明らかに間違えています。曖昧さ回避を使えるのは「ふたりのロッテ」という全く別の作家の作品や事物が存在する場合(Wikipedia:記事名の付け方#記事名の重複を回避する手段)であって、ケストナー原作作品のミュージカルや映画の単独記事が必要であれば、ふたりのロッテ_(ミュージカル)ふたりのロッテ_(映画)の項目名を用いて本項目より誘導すべきです。--水野白楓 2006年9月2日 (土) 09:48 (UTC)[返信]
【追記】本項目の現状記事に「アニメ版」とあって「わたしとわたし ふたりのロッテ」への誘導がきちんと出されているのであるから、それ以上は単なる蛇足でかえって利用者をたらい回しにするだけだと思われるが。--水野白楓 2006年9月2日 (土) 12:44 (UTC)[返信]
Wikipedia:曖昧さ回避に山手線方式の説明として、「代表的なトピックを「項目名」に書き、それ以外の「項目名 (分野)」などのページの先頭部分にリストするもの」と書かれています。この方式はウィキペディアでは認められている方式なわけですから、山手線方式そのものについて「たらい回しにするだけ」等の非難されるのであれば、井戸端等で提議すべきことなのではないですか?--ponpon 2006年9月2日 (土) 13:09 (UTC)[返信]
Wikipedia:曖昧さ回避の冒頭に「曖昧さ回避は、同じ項目名をもつ異なるページについて、読者が調べたいものを選ぶことができるようにするためのものです。」と明記されているわけで、山手線方式の説明も当然「記事名が同一で異なるページを区別する方法」が記されているわけです。「ふたりのロッテ」という記事は現時点では本記事しか存在しないわけですから、曖昧さ回避をする必要はありません。自分の勝手な解釈で山手線方式を運用しないでくれませんか。--SINOBU 2006年9月3日 (日) 08:44 (UTC)[返信]
履歴を見ていただければ分かりますが、ponponが作成したのは山手線方式の曖昧さ回避です。Wikipedia:曖昧さ回避によれば水野白楓さんがおっしゃるような形の誘導案内も曖昧さ回避になっていると思いますが。水野さんの考えていらっしゃる誘導とはどのような誘導なのでしょうか?--ponpon 2006年9月2日 (土) 09:56 (UTC)[返信]
【追記】私としては、最低でもわたしとわたし ふたりのロッテについては山手線方式・曖昧さ回避が必要だと思ってます。--ponpon 2006年9月2日 (土) 10:26 (UTC)[返信]

そもそも山手線形式をはじめとする曖昧さ回避は記事の重複を防ぐためにやむを得ず行うものであり、この記事のように曖昧でもなんでもない事例については不要でしょう。--SINOBU 2006年9月2日 (土) 11:43 (UTC)[返信]

アニメ版の二人のロッテを「わたしとわたし ふたりのロッテ」と正式名称を記憶に残していて、きちんと区別して利用している人はいないんじゃないでしょうか?参考としてのgoogle-testをするとその結果[1]では、アニメの二人のロッテを「わたしとわたし ふたりのロッテ」と書いてない人も多いようですが。--ponpon 2006年9月2日 (土) 11:58 (UTC)[返信]
水野白楓さんも指摘している通り、記事にテレビアニメ版へのリンクがある以上、現在の記事で何の問題もないと思いますが。わざわざ山手線にする必然性はありませんね。--SINOBU 2006年9月3日 (日) 08:32 (UTC)[返信]
Wikipedia:曖昧さ回避には『読者が検索ボックスでその言葉を入力して「表示」を押してその項目を探す可能性がどれだけあるかどうかで判断してください』とあります。記事内にリンクが張られているからという理由で、記事上部の曖昧さ回避を削除するのは、必要な情報の削除になっていると思います。アニメ版を探して「ふたりのロッテ」に来た人は本記事を読めということですか?それと、「わざわざ記述する必要はありません」ではなく、今回は「わざわざ削除する必要はない」という話ではありませんか?--ponpon 2006年9月3日 (日) 08:41 (UTC)[返信]

テレビアニメ版「わたしとわたし ふたりのロッテ」は、児童小説である「ふたりのロッテ」の二次創作物なのですから、小説版の説明に付随する記述で何の問題もないでしょう。小説が主でアニメは従なのですから「アニメ版を探して本記事を読めということですか」というのは何の反論にもなってませんよ。--SINOBU 2006年9月3日 (日) 08:52 (UTC)[返信]

問題点がズレてます。問題なのは読者が検索ボックスでその言葉を入力して「表示」を押してその項目を探す可能性がどれだけあるかという点です。アニメ版等の記事を「ふたりのロッテ」と入力して検索する可能性が高い以上、記事内にリンクが存在する、どちらが主記事か、という点は意味がないのでは?実際、別のページとして記事が起されているわけですから、主従がどちらか、という点は全く焦点にはなっていません。--ponpon 2006年9月3日 (日) 09:15 (UTC)[返信]

アニメ版を目当てで検索してこの記事に来た人は、「テレビアニメ版」のところにあるリンクをクリックすれば済むだけの話でしょう。現時点で誘導は十分にされていると思いますが。--SINOBU 2006年9月3日 (日) 10:57 (UTC)[返信]

テレビアニメ版の記事が先に存在しており、その記事の検索に「ふたごのロッテ」が使われる可能性が極めて高いわけです。原作である「ふたりのロッテ」の記事は現状では出来た直後であり見通しが軽いので、記事内の項目を見ればよい、と主張されているのかものかも知れませんが、それでは本末転倒です。そもそも「山手線方式曖昧さ回避」の意義は、記事内を見ずとも誘導先がわかる利便性もあるわけで、実際、このページの当初の曖昧さ回避方式で利用されているものも多数あります(カテゴリの一覧はご覧になられましたか?)。「記事内のリンクを見ればよい」ということで曖昧さ回避部分を否定されるのであれば、それは井戸端等で議論の対象にしてください。少なくとも、ノートで議論する前にいきなり削除されるのは如何かと思います。--ponpon 2006年9月4日 (月) 00:52 (UTC)[返信]

記事の全文を読まなくとも、目次を見れば「テレビアニメ版」という見出しがあるんですからどこを見ればいいのか一目瞭然ですけど。--SINOBU 2006年9月4日 (月) 11:11 (UTC)[返信]

それは「曖昧さ回避」そのものに対する非難であって、このページに曖昧さ回避をつけるか否かとは別の問題ではないでしょうか?別の場所で議論の対象にすべきことだと思います。では、例えばSINOBUさんは、オペラ座の怪人ウンディーネアイスエイジアビー・ロードについては、ど思われてるんですか?(ウンディーネについては、個人的には前から機会を見て分割依頼をしようと思ってますが)--ponpon 2006年9月5日 (火) 01:45 (UTC)[返信]

よその記事を引き合いに出すなら、この記事と同様にアニメ作品等の二次創作物へ記事内のリンクで誘導している記事はいくらでもあるわけですが(赤毛のアンアルプスの少女ハイジ宝島)。他の記事がどうかではなく、現在のこの記事で曖昧さ回避が必要かどうかを問題にすべきでしょう。「読者が迷うおそれがない場合には、曖昧さ回避にしたり、曖昧さ回避のためのページにリンクを追加したりしないようにしてください。」--SINOBU 2006年9月5日 (火) 05:23 (UTC)[返信]

失礼ですが、SINOBUさんの、今回のページでは曖昧さ回避部分を付けてはならないという主張に対する反例として、私は他の例を出しています。SINOBUさんの主張の場合は、例示では何の意味もなさないのですが。二人のロッテの場合、原作の記事の分量と、演劇・映画の派生作品に関する記事が伸びる可能性が高い上に、上で示したように、簡単なgoogle-testで示されるように、アニメ作品を「ふたりのロッテ」と記す人が多いわけです。曖昧さ回避部分をつけることに、何ら不思議はないと思います。少なくとも、記されたものをわざわざ削除する必要性はないはずです。--ponpon 2006年9月5日 (火) 06:26 (UTC)[返信]

読者が迷うおそれがない場合には、曖昧さ回避にしたり、曖昧さ回避のためのページにリンクを追加したりしないようにしてください。」とある以上、不要な山手線スタイルは削除すべきと判断しました。そもそもPonponさんの記事は、現在本記事に含まれている劇団四季ミュージカルの記事を別の記事へのリンクにするなど、読者を誘導するどころか誤解させる記事でしたが。--SINOBU 2006年9月5日 (火) 08:18 (UTC)[返信]

ふたりのロッテの記事が立ち上がって10時間もたっていない状態ですから、赤リンクが多少あるくらい仕方がないでしょう。まして、回避部分を作って30分ちょっとの時間でいきなり削除されては、記事の拡張も何もできないのではないですか?例えば、オペラ座の怪人の記事が原作小説、派生小説、各種映画、各種舞台作品がごちゃ混ぜの状態の記事になっており、最も知られている舞台作品のオペラ座の怪人の記事を非常に拡張させにくい状態でした。一旦、複合した内容の記事が大きくなってしまうと、拡張性の問題ばかりか、将来は分割議論等をする必要性が生じてきます。この、ふたりのロッテの関連記事も、私はおいおいと拡張し、各記事を立ち上げるつもりだったんです。(はっきりと言わせて貰えば、この状態では拡張しにくいんです。)そもそも、迷うおそれがないと繰り返されてますが、何をもって迷う恐れがないと断定されているわけですか?上記で反例を示しましたように、この状態は十分に曖昧さ回避部分を添付しなければならない状態ではないにせよ、あっても良い状態なはずです。削除しなければならないという十分な要件は成立してないと思います。--ponpon 2006年9月5日 (火) 09:41 (UTC)[返信]

上にも書いたとおり、ミュージカルの記事を別の記事だと誘導する虚偽の誘導が含まれており、放置しておくのは利用者が誤解をする恐れがあったので削除したのです。将来的な拡張計画以前の問題として、「現時点でこの記事を読んだ読者がどう判断するか」を第一に考えるべきじゃないですか。--SINOBU 2006年9月5日 (火) 10:19 (UTC)[返信]

虚偽の誘導ではなく、赤リンクです。派生作品の多い記事において、メイン記事なのか関連記事なのかは大きな問題であり、メイン記事がまだ作成されていないことを赤リンクで示すことが出来るというメリットがあります。それから、安直に虚偽の誘導などと言わないで戴けますか。--ponpon 2006年9月5日 (火) 10:38 (UTC)[返信]

存在もしない「劇団四季版ミュージカルの記事」へのリンクを冒頭に置くことによって、「記事内を見ずにミュージカルの情報が存在しないと早合点」という誤解を招くわけですが。将来の記事の拡張を考えるのは自由ですけど、実際問題として現在存在していない分割予定地にいちいちリンクを張るのは混乱を招くだけでしょう。だいたい、「30分ちょっとで削除されては」とおっしゃいますが、ウィキペディアでは誰もが自由に閲覧・編集できる場なんですから書きかけの中途半端な記事を放置したら修正されるのは当たり前でしょう。--SINOBU 2006年9月5日 (火) 11:18 (UTC)[返信]

通常、新記事を書く場合は赤リンクがはってある状態から新記事を立ち上げるわけで、単独で新記事を立ち上げる方式の方が推奨されていない方のやり方だと思いますが。それから、単なる削除と編集を同列に扱うのは如何なものですか。赤リンクが存在するだけで「中途半端」とするのでしたら、いわゆる「白紙化」も問題ない行為ということになりますよ。--ponpon 2006年9月5日 (火) 12:21 (UTC)[返信]

あなたはアニメ版への山手線方式による誘導について「記事内を見ずとも誘導先がわかる利便性もあるわけで」と書いてますが、だったらミュージカル版の赤リンクを冒頭に持ってくることで「記事内を見ずに冒頭だけ見てミュージカルの情報が存在しないと思い込む危険性」があるのもわかりませんか。劇団四季ミュージカルの記述が現に存在する以上、ミュージカルの記事は本記事であり、別の項目へ誘導するのは混乱を招く行為です。--SINOBU 2006年9月5日 (火) 18:26 (UTC)[返信]

0か1かのオールオアナッシングで言われましても。メイン記事か周辺記事かの違いがわかるだけで通常は十分では?あと、今回のケースでは無くても良いあっても良いケースであって、あってはならないは成立しないはずです。--ponpon 2006年9月5日 (火) 23:55 (UTC)[返信]

Wikipedia:曖昧さ回避によれば曖昧さ回避とは「読者が調べたいものを選ぶことができるようにするためのもの」です。現時点でミュージカルの記事がこの記事に存在するにもかかわらず、全く別の項目(しかも赤リンク)に誘導するのは、曖昧さ回避の存在意義そのものを否定する行為ではないですか。あと、「あってもなくてもいい」という程度のものなら、私は除去すべきだと思いますね。「必要なときのみ、注意深く使用して下さい」とあるんですから。--SINOBU 2006年9月6日 (水) 05:20 (UTC)[返信]


井戸端でもかきましたが、Ponponさん以外に山手線方式にすべきと言う人が出てこない以上、これ以上議論を続けてもムダだと思います。私はWikipedia:曖昧さ回避から根拠となる文章をきちんと提示しているのに、Ponponさんの方は「他の記事で曖昧を使ってるからこっちでもいいんだ」以上の根拠がないようですし。--SINOBU 2006年9月7日 (木) 08:10 (UTC)[返信]

Wikipedia:曖昧さ回避読者が検索ボックスでその言葉を入力して「表示」を押してその項目を探す可能性がどれだけあるかどうかで判断してくださいという文面が根拠ですし、上記にも明記してありますが。あと、上記に書かれた議論をどう要約したらSINOBUさんのような見解になるんです?--ponpon 2006年9月7日 (木) 08:24 (UTC)[返信]
それについては既に「原作とそのアニメ化作品では主記事と従記事だから曖昧じゃない」と反論済みです。主記事であるこのページから、関連作品の部分を見れば済むだけの話です。--SINOBU 2006年9月7日 (木) 08:31 (UTC)[返信]