ノート:お富の方
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[編集]お富の祖父の姉妹は大奥で中臈として働き、父・正利はその縁で、大奥の御年寄・梅田の養女を正室として迎え、その二人から生まれた娘がお富であった。お富も大奥に入り、徳川家治時代の御年寄・大崎に仕えるようになった。
お富は側室となる前に、仕えていた大奥年寄・大崎の養女となって一橋邸に入り、治済の側室となった。また、当時の江戸幕府の権力者・田沼意次と父・岩本正利は親しく、お富も意次の正室と懇意の関係だったという。これが縁で、一橋家の筆頭家老に意次の弟の子・意致が就いている。
子・家斉が御台所・茂姫(近衛寔子)以外の大奥中臈に次々と手をつけ子を生ませる為、御台所の父・島津重豪が娘・茂姫との間に子を作らない事に不満を呈したため、お富は家斉に、御台所との間に嫡子を儲けるよう進言し、寛政8年(1796年)に茂姫は懐妊し、徳川敦之助を生む。お富は正統な嫡子の誕生を喜んだという。しかし、敦之助は寛政11年(1799年)に夭折してしまい、お富は嫡子の死を悲しんだという。
お富と茂姫は仲が良く、大奥でありがちな嫁姑の争いはなかったという。
大奥を批判する老中・松平定信をお毛嫌いしており、定信を失脚させようと反定信派の老中らと結託し、定信を失脚させたのはお富の方の力が大いに働いたからだとも言われている。
- 221.22.86.91氏が編纂された箇所で、出典の疑わしき部分をこちらへ移させていただきました。これに関する史料・参考文献など、何かご存知の方がいらっしゃいましたらご協力ください。--飲んでも飲まれるな 2008年1月20日 (日) 05:23 (UTC)