ノロドム・シリウッド
ノロドム・シリウッド នរោត្តម សិរីវុឌ្ឍ Norodom Sirivudh | |
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生年月日 | 1951年6月8日 |
出生地 | カンボジア王国、プノンペン |
出身校 | パリ・ドフィーヌ大学(パリ第9大学) |
所属政党 | フンシンペック党 |
親族 | ノロドム・シハヌーク国王(異母兄) |
内閣 | ラナリット=フン・セン連立内閣 |
在任期間 | 1993年7月1日 - 1993年10月 |
SNC議長 | ノロドム・シハヌーク |
内閣 | ラナリット=フン・セン連立内閣 |
在任期間 | 1993年10月29日 - 1994年10月24日 |
国王 | ノロドム・シハヌーク |
内閣 | フン・セン内閣 |
在任期間 | 2004年7月15日 - 2006年3月21日 |
国王 |
ノロドム・シハヌーク ノロドム・シハモニ |
内閣 | フン・セン内閣 |
在任期間 | 2004年7月15日 - 2006年3月2日 |
国王 |
ノロドム・シハヌーク ノロドム・シハモニ |
ノロドム・シリウッド(クメール語: នរោត្តម សិរីវុឌ្ឍ / Norodom Sirivudh, 1951年6月8日[1] - )は、カンボジアの王族、政治家。カンボジア内戦期はフンシンペック(シハヌーク派)幹部としてパリを拠点に活動し、和平協定成立後はフンシンペック党事務局長、王国政府外務・国際協力大臣(外相)、副首相を歴任した。現在は甥のシハモニ国王の下で最高枢密顧問官を務める。
また外相在任時に、非政府系シンクタンク・カンボジア協力・平和研究所を創設し、同理事長を務める。
シリウット、シリヴッド、シリブッドとも表記される。
経歴
[編集]シリウッド親王は1951年、フランス保護下のカンボジア・プノンペンにおいて、ノロドム・スラマリット親王(後のカンボジア国王)の第3王子、シハヌーク国王の異母弟として生まれた。
カンボジア国内では科学を学んでいたが[1]、1970年の右派ロン・ノル将軍のクーデターにより王政が廃止される。
留学時代
[編集]1972年からはパリに留学し、経済学を学ぶ[1]。この学生時代に、シハヌークを議長とするカンプチア民族統一戦線に参加した[1](別資料では、1971年参加とある[2]。)
1975年のロン・ノル政権崩壊後もパリに留まり、1976年にパリ・ドフィーヌ大学(パリ第9大学)で経済学修士の学位を取得した[2]。
フンシンペックにおける政治活動
[編集]1981年、兄シハヌークが王党派組織フンシンペックを設立するとこれに参加[1][2]。後には甥のラナリット親王の首席代表を務めた[2]。
1988年、フンシンペックの人道問題担当部門の長に任ぜられ[2]、また同年のジャカルタ和平会談ではフンシンペック代表団の1人となり、1991年の和平協定成立まで務めた[2]。この間、1989年にフンシンペック事務局長に就任し[1]、1990年まで務めていた[2]。
カンボジア和平後
[編集]和平協定成立後の1991年11月7日、シリウッドは20年ぶりに帰国することになる[2]。1993年の議会選挙ではコンポンチャム州の代表として当選し[2]、6月末にはフンシンペックとカンボジア人民党の連立からなる「カンボジア暫定国民政府」の外務・国際協力大臣(外相)に任命され、7月1日に制憲議会で承認された[3]。
また同年9月の王政復古後は、連立政府の共同副首相および外務大臣に任命され、10月29日に国会で承認された[2][4]。
1993年末にフンシンペック党事務局長に任命[2]。1994年、プノンペンを拠点とする非政府系シンクタンク組織、カンボジア協力・平和研究所 (CICP) 理事長に就任する[2]。しかし、フンシンペック党首のラナリット第一首相が急速にフン・センに接近したのに対し、シリウッドはシハヌーク国王の路線に近かったことから、両者の間に深刻な対立が生じることとなる[5]。
1994年10月20日、同じくシハヌーク国王に近いサム・ランシー経済財政大臣が更迭されると、これに抗議して25日に共同副首相および外務大臣を辞任した[2][6][7]。
パリ亡命
[編集]大臣辞任後はますます政権批判を強め、1995年11月17日にはフン・セン第二首相暗殺謀議の容疑で逮捕された[8][9]。シリウッドは12月21日(別資料では11月21日[8])、シハヌーク国王の口添えで出国し、フランスに亡命した[10]。翌1996年2月22日、この暗殺謀議に関する初公判がプノンペン市裁判所で開かれ、被告欠席のまま禁固10年の判決が下される[11]。
ところが、同年7月1日にはフンシンペックとクメール国民党、およびシリウッドにより「カンボジア民主連合」が結成され、フン・セン率いる人民党に対抗することとなる[12]。同年末にシリウッドは帰国の意思を表明するが、これにフン・センが反対し、翌1997年4月には帰国を企てたが途中断念した[13]。
政界復帰
[編集]1998年7月の総選挙の後、人民党とフンシンペックの間で連立交渉がなされ、11月の連立合意によりシリウッドを含むフンシンペック関係者5人に恩赦を与えることが決められた[14]。これにより、シリウッドは1999年1月20日、3年ぶりの帰国が叶った[15][16]。同年4月、国王最高枢密顧問官に指名される[2]。
2001年7月5日(別資料では6月28日[17])、再びフンシンペック党事務局長に就任[2][18]。2003年7月の総選挙ではカンダル州の代表として当選し、2004年7月15日、副首相兼内務省共同大臣に任ぜられた[2][19]。2005年8月にはベトナム人民警察60周年記念式典への参加のため内務省代表団を率いて訪越し、ベトナム政府より友好勲章を授与された[20]。
しかし、2006年3月の憲法改正および共同大臣制廃止に伴い、3月2日に内務省共同大臣を解任された[21][22][2]。
同年3月14日、国外に出発するラナリット党首により、シリウッドは党首代行に任命されるが[22]、3月21日には国会により副首相職も解任され[22]、翌22日にフンシンペック党首代行を辞任した[22]。
2010年5月5日、ノロドム・シハモニ国王により憲法評議会議員に任ぜられ、2019年6月15日まで9年の任期を務めることとなった[23][24]。
日本との関係
[編集]2002年2月に来日し、非営利組織グローバル・フォーラム (GFJ) 主催の第1回日・ASEAN対話にパネリストとして参加する[25]。
2008年6月の「G8宗教者サミット2008」の名誉顧問および実行委員の一人として開催支援する[26]。
2012年3月には、GFJ主催の第9回日・ASEAN対話に参加した[27]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f Leife, Michael (1995). "Sirivudh, Prince Norodom (Cambodia)". Dictionary of the Modern Politics of Southeast Asia. New York: Routledge.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Pou Sothirak、Geoff Wade、Mark Hong (2012). Cambodia: Progress and Challenges Since 1991
- ^ 「カンボジア暫定政府が初閣議 施政方針を決める 財源はメド立たず」『朝日新聞』 1993年06月30日
- ^ 『アジア動向年報 1994年版』, p. 240, 参考資料 カンボジア 1993年.
- ^ 『アジア動向年報 1996年版』, p. 254, 主要政党の内部分裂強まる.
- ^ 『アジア動向年報 1995年版』, p. 247, 重要日誌 カンボジア 1994年.
- ^ 『アジア動向年報 1995年版』, p. 237, 1994年のカンボジア 政府とポト派が全面対決」.
- ^ a b 『アジア動向年報 1996年版』, p. 272, 重要日誌
- ^ 『アジア動向年報 1996年版』, p. 253-254, 主要政党の内部分裂強まる.
- ^ 「カンボジア国外追放処分のシリウッド前副首相が出国(地球24時)」『朝刊新聞』 1995年12月22日
- ^ 「シリウッド前外相に禁固10年の判決 カンボジア(地球24時)」『朝日新聞』 1996年02月23日
- ^ 『アジア動向年報 1997年版』, p. 239-240, ASEAN外交進展と混迷化する内政.
- ^ 『アジア動向年報 1998年版』, p. 239, 1993年体制の終わりの始まり.
- ^ 『アジア動向年報 1999年版』, p. 228-229, 国際社会の信頼を取り戻すために.
- ^ カンボジア重要日誌 & 『アジア動向年報 2000年版』, p. 237.
- ^ 「シリウッド殿下が逮捕・恩赦経て帰国 カンボジア」『朝日新聞』 夕刊、1999年01月21日
- ^ カンボジア重要日誌 & 『アジア動向年報 2002年版』, p. 243.
- ^ 「国王の弟が政界復帰 カンボジア(地球24時)」『朝日新聞』 2001年07月07日
- ^ 『アジア動向年報 2005年版』, p. 263, 参考資料.
- ^ a b Prime Minister receives foreign guests at 60th anniversary of Viet Nam People's Police 2005.8.16
- ^ 『アジア動向年報 2007年版』, p. 239, フンシンペック党の分裂.
- ^ a b c d 『アジア動向年報 2007年版』, p. 249, 重要日誌
- ^ “HRH Prince Sirivudh Norodom”. 2015年10月26日閲覧。
- ^ “List of Members serving on the Constitutional Council” (PDF). General Presentation. CONSTITUTIONAL COUNCIL OF THE KINGDOM OF CAMBODIA. 2015年10月22日閲覧。
- ^ “第1回「日アセアン対話」開催 「日本とアセアン:アジア太平洋地域の平和と繁栄のための協力」”. 会報 春季号 通巻第10号. グローバルフォーラム (2002年4月1日). 2015年10月21日閲覧。
- ^ http://www.relnet.co.jp/g8/info06_01.htm
- ^ “第9回「日・ASEAN対話:ASEAN統合の未来と日本の役割~新共同宣言後の日・ASEANパートナーシップ~」”. 2015年10月26日閲覧。
参考文献
[編集]- 冨山泰『総選挙成功したがポト派問題積み残し : 1993年のカンボジア』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1994年版〉、1994年、229-246頁。doi:10.20561/00038872。hdl:2344/00002209。ISBN 9784258010943 。「ZAD199400_011」
- 冨山泰『政府とポト派が全面対決 : 1994年のカンボジア』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1995年版〉、1995年、231-250頁。doi:10.20561/00038845。hdl:2344/00002381。ISBN 9784258010950 。「ZAD199500_017」
- 友田錫『主要政党の内部分裂強まる : 1995年のカンボジア』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1996年版〉、1996年、251-278頁。doi:10.20561/00038814。hdl:2344/00002273。ISBN 9784258010967 。「ZAD199600_015」
- 四本健二『ASEAN外交進展と混迷化する内政 : 1996年のカンボジア』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1997年版〉、1997年、235-258頁。doi:10.20561/00038785。hdl:2344/00002302。ISBN 9784258010974 。「ZAD199700_015」
- 天川直子『1993年体制の終わりの始まり : 1997年のカンボジア』日本貿易振興会アジア経済研究所〈アジア動向年報 1998年版〉、1998年。doi:10.20561/00038756。hdl:2344/00002330。ISBN 9784258010981 。「ZAD199800_014」
- 天川直子『国際社会の信頼を取り戻すために : 1998年のカンボジア』日本貿易振興会アジア経済研究所〈アジア動向年報 1999年版〉、1999年、223-246頁。doi:10.20561/00038727。hdl:2344/00002357 。「ZAD199900_013」
- 天川直子『紛争の時代から「国内政治」の始まりへ : 1999年のカンボジア』日本貿易振興会アジア経済研究所〈アジア動向年報 2000年版〉、2000年、223-244頁。doi:10.20561/00038700。hdl:2344/00002385 。「ZAD200000_013」
- 天川直子『平穏な1年,国際機関の指導の下で諸改革に取り組む : 2001年のカンボジア』日本貿易振興会アジア経済研究所〈アジア動向年報 2002年版〉、2002年、225-248頁。doi:10.20561/00038646。hdl:2344/00002439 。「ZAD200200_013」
- 天川直子『新政府の成立 : 2004年のカンボジア』日本貿易振興機構アジア経済研究所〈アジア動向年報 2005年版〉、2005年、249-268頁。doi:10.20561/00038562。hdl:2344/00002523。ISBN 9784258010059 。「ZAD200500_014」
- 初鹿野直美『フンシンペック党の分裂 : 2006年のカンボジア』日本貿易振興機構アジア経済研究所〈アジア動向年報 2007年版〉、2007年、237-256頁。doi:10.20561/00038504。hdl:2344/00002580。ISBN 9784258010073 。「ZAD200700_013」
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