ネジミエ・ホッジャ
ネジミエ・ホッジャ Nexhmije Hoxha | |
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アルバニアのファーストレディ | |
個人情報 | |
生年月日 | 1921年2月7日 |
出生地 | ユーゴスラビア王国 ビトリ |
没年月日 | 2020年2月26日(99歳没) |
死没地 | アルバニア ティラナ |
配偶者 | エンヴェル・ホッジャ |
国籍 | アルバニア |
出身校 | ティラナ大学 |
職業 | 政治家 |
署名 |
ジュグリニ・ネジミエ・ホッジャ((Xhuglini) Nexhmije Hoxha [dʒuglini nɛdʒmijɛ hɔdʒa] (セルビア・クロアチア語: (Džuglini) Nedžmije Hodža, 1921年2月7日 - 2020年2月26日[1])は、アルバニアの政治家。アルバニア労働党第一書記エンヴェル・ホッジャの妻である。セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国ビトリ(現マケドニア共和国ビトラ)生まれ。
来歴・人物
[編集]ティラナの高等学校に学び、ティラナ大学で学業を続けた。1941年11月に新設されたアルバニア共産党に入党し、翌年には国民解放前線全体評議員に選出される。戦時中は国民解放軍第1師団に従軍してパルチザンに身を投じ、1943年には共産主義アルバニア女性同盟の書記に、また1946年から1952年まで議長に選出された。戦後に共産党書記長で首相のエンヴェル・ホッジャと結婚する。1948年に国民議会に選出され、1952年にアルバニア労働党(1948年共産党を改称)中央委員会に加入。1966年にはマルクス・レーニン主義研究所の総裁に就任した。
ホッジャの治世は、人権侵害や反対者の迫害が顕著で、毛沢東主義と無神論によって宗教一般が禁止されたが、とりわけ教会やモスクが襲撃された。ホッジャ夫人は夫の判断に対して強烈な影響力を持っていたことから、民衆の声では、彼女はアルバニアの女君主そのもので通っていた。
1985年にエンヴェル・ホッジャが死ぬと民主主義戦線の議長に選出され、改革期(1990年~1991年)になるまでラミズ・アリアの政権に助けられて依然として権力を保持した。
1989年8月にマザー・テレサがアルバニアを訪問した際は、ネジミエら政府要人は歓迎し、テレサはティラナのアルバニア国立殉教者墓地にあるエンヴェル・ホッジャの墓に花束をそなえ、マザー・アルバニア像に花冠を飾った[2]。
1990年12月に民主主義戦線の議長を解任される。1994年に、ホッジャの治世にアルバニアの国家財源を濫費した廉で逮捕された[3]。
2020年2月26日、ティラナの自宅で死去[5]。
脚注
[編集]- ^ “Nexhmije Hoxha, Wife of Communist Dictator Dies at 99” (英語). Albanian Daily News. 2020年2月26日閲覧。
- ^ Hitchens, Christopher (1995). The Missionary Position: Mother Teresa in Theory and Practice. London: Verso. ISBN 978-1-85984-054-2 2019年5月14日閲覧。
- ^ My Father, Enver Hoxha by Nexhmije's son Ilir
- ^ アルバニア労働党(1991年以降はアルバニア社会党)の社会民主主義への転換を非難し、反修正主義を掲げ、新たに結成された。
- ^ “Nexhmije Hoxha, widow of Albania’s communist dictator, dies at 99” (英語). Arab News (2020年2月26日). 2020年2月26日閲覧。
関連作品
[編集]- リッカルド・オリツィオ『独裁者たちの言い分 トーク・オブ・ザ・デビル』 松田和也訳、柏書房、2003年。ISBN 4760124039