ネグレイ
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ネグレイ(モンゴル語: Negülei、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたアスト人将軍の一人。『元史』における漢字表記は捏古剌(niēgŭlà)。
概要
[編集]ネグレイは本来カフカース山脈に住まうオセット人(モンゴル帝国ではアスト人と呼ばれる)で、モンゴル帝国第4代皇帝モンケの治世に30人のアスト人とともにモンゴル高原に移住してきた。モンケ・カアンの南宋親征、李璮の乱討伐などに従軍し功績を挙げた。
息子のアダチ(阿塔赤)はセチェン・カアン(世祖クビライ)に仕えて襄陽・樊城の戦いに加わり、後にはナヤン・カダアンの乱鎮圧に活躍した。その後成宗・武宗・仁宗の3代に仕え、ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の治世に左阿速衛千戸に任ぜられた後、間もなく亡くなった。
アダチの息子のジャファル(教化)はケシクテイ(親衛隊)のシュクルチとなり、ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)の治世にはバウルチとなった[1]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻123列伝10捏古剌伝,「捏古剌、在憲宗朝、与也里牙阿速三十人来帰。後従征釣魚山、討李璮、皆有功。子阿塔赤、世祖時囲襄陽、下江南、敗失列及、征乃顔、皆以功受賞。後事成宗・武宗、為札撒兀孫。仁宗時、歴官至左阿速衛千戸。卒。子教化、初為速古児赤、継襲父職。必里阿禿叛、奉旨往平之、凱還、賜衣一襲。天暦元年八月、従丞相燕帖木児戦居庸北、有功。九月、進拱衛直都指揮使。尋遷章佩卿。子者燕不花、初事仁宗、為速古児赤。英宗時為進酒宝児赤。天暦元年、迎文宗於河南、賜白銀・綵幣、命為温都赤。九月、往居庸関料敵、道逢二軍、謂探馬赤諸軍曰:「今北兵且至、其避之」。者燕不花恐搖衆心、即抜所佩刀斬之。授兵部郎中。招集阿速軍四百餘人。十月、進兵部尚書、授双珠虎符、領軍六百人迎敵通州。会丞相燕帖木児至檀子山、与禿満畳児戦、敗之。遷大司農丞」
参考文献
[編集]- 『元史』巻123列伝10捏古剌伝