ヌムール
Nemours | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | イル=ド=フランス地域圏 |
県 (département) | セーヌ=エ=マルヌ県 |
郡 (arrondissement) | フォンテーヌブロー郡 |
小郡 (canton) | ヌムール小郡 |
INSEEコード | 77333 |
郵便番号 | 77140 |
市長(任期) |
ヴァレリー・ラクルート (2008年 - 2014年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes Pays de Nemours |
人口動態 | |
人口 |
12 813人 (2007年) |
人口密度 | 人/km2 |
住民の呼称 | Nemouriens [1]. |
地理 | |
座標 | 北緯48度16分03秒 東経2度41分49秒 / 北緯48.2674265度 東経2.6969719度座標: 北緯48度16分03秒 東経2度41分49秒 / 北緯48.2674265度 東経2.6969719度 |
標高 |
平均:?m 最低:57m 最高:133 m |
面積 | 10.83km2 (1 083ha) |
公式サイト | www.nemours.fr |
ヌムール (Nemours)は、フランス、イル=ド=フランス地域圏、セーヌ=エ=マルヌ県のコミューン。
地理
[編集]フォンテーヌブローの南約17kmに位置する[2]。ロワレ川に面する。国道7号線がコミューンを通過する。
歴史
[編集]ヌムールの名は843年にNemaususと記された。これはニームを発祥とするガリア神Nemaususに由来する。ガリア語でnemとは聖域を指し、nemeto-は神聖な場所、神殿を意味する。
ヌムールの歴史は12世紀までさかのぼれる。最初は領主支配だった。市街にある城とサン=ジャン=バティスト教会は、ルイ7世とフィリップ・オーギュスト王子(のちのフィリップ2世)の二代にわたって仕えた侍従長、ゴーティ・ド・ヴィルベオンの要請で1170年頃に建てられたものである。市街は百年戦争中の1358年に焼失した。火災で破壊された教会は1445年に再建され1555年に完成した。
1274年、ヌムールはフィリップ3世に買収され、シャルル6世時代の1404年、公爵領となった。その後ナバラ王カルロス3世に対して譲渡された。1425年、フランス王国に貸し出され、その後没収された。ルイ11世はジャック・ダルマニャックにヌムールを割譲した。1503年にアルマニャック家が断絶するとフランス王国へ再び戻った。ルイ12世はナルボンヌ伯領と交換にガストン・ド・フォワへヌムールを授けた。フランソワ1世はヌムールをメディチ家のジュリアーノへ授けた。ジュリアーノの死後、未亡人となったフィリベルト・ド・サヴォワがヌムールを相続、以後サヴォワ家が150年間領有した。サヴォワ家が断絶するとルイ14世のものとなり、王はオルレアン公フィリップ1世へヌムールを授けた。彼の子孫が1789年まで代々領主であった。ヌムール公の称号は、ルイ・フィリップ王の次男ルイ・シャルル王子の家系へ受け継がれた。
1585年7月7日、アンリ3世はヌムール城において、ユグノーの公式礼拝を禁じ、アンリ・ド・ナヴァール(のちのアンリ4世)の王位継承権を排除するというヌムール条約を締結した。
アメリカ合衆国の多国籍企業デュポンの正式名称はイー・アイ・デュポン・ド・ヌムール・アンド・カンパニーである。このデュポン・ド・ヌムールとは創業者エルテール・デュポンの父親がルイ16世によって貴族に列せられた際名乗った姓である。
出身者
[編集]- ピエール・ベルチェ - 鉱物学者
- フィリップ・プティ - 大道芸人
- エティエンヌ・ベズー - 数学者
- アブドゥライェ・ディアビ - サッカー選手
- エヴァンス・コンドグビア - サッカー選手
- ジョフレイ・コンドグビア - サッカー選手
姉妹都市
[編集]脚注
[編集]- ^ http://www.habitants.fr/habitants_nemours_77333.html
- ^ Marie-Nicolas Bouillet et Alexis Chassang (dir.), « Nemours » dans Dictionnaire universel d’histoire et de géographie, 1878