ニコル・ド・サヴィニー
ニコル・ド・サヴィニー(Nicole de Savigny, baronne de Fontette et de Saint-Rémi, 1535年[1] - 1590年2月4日)は、ヴァロワ家統治期のフランスの貴族女性。フランス王アンリ2世の愛妾となった。
生涯
[編集]ロレーヌ地方のサイイ(Sailly)の領主ギヨーム・ド・サヴィニーの娘に生まれた。若くしてフォンテットおよびサン=レミ男爵ジャン・ド・ヴィル(Jean de Ville)に嫁ぎ[2]、1男1女をもうけた。息子のアンドレは父親の後を継ぎ、娘のエリザベートは尼僧となった。1552年に夫と死別し、わずか17歳で未亡人となる。フランス宮廷に出仕した後、1556年にアンリ2世王の目に留まって寵愛を受けるが、王は1年ほどで最愛の寵姫ディアーヌ・ド・ポワチエの元に戻っていった。
ニコルはアンリ2世との間の息子アンリ・ド・サン=レミ(1557年 - 1621年)を出産した。しかしアンリ2世はニコルの産んだ子の父親が本当に自分がどうか疑っており、この子を認知しなかった。このアンリ・ド・サン=レミの6代目の子孫の1人が、1785年に起きた首飾り事件の首謀者、ラ・モット伯爵夫人ことジャンヌ・ド・サン=レミである。
王の寵愛を失った後、ニコルは息子アンドレの住むフォンテット城に帰った。アンドレが子供を遺さないまま死ぬと、母親のニコルが男爵家の財産を相続し、「フォンテットの奥方(dame de Fontette, Noyer, Beauvoir, Charmay et Chastellier)」と呼ばれた[3]。ニコルは田舎に戻った後も色恋沙汰に事欠かず、問題を起こした。恋人の1人だったブザンソン大司教クロード・ド・ラ・ボーヌが結婚の約束を破ったとして、教会に告訴したのである。この訴えは1567年12月、ローマ控訴院(Roman Rota)において棄却された[4]。
ニコルは死ぬ1月前の1590年1月12日付の遺書において、アンリ2世本人は疑っていたにもかかわらず、アンリ・ド・サン=レミを王の落胤として扱ってほしいと書き残した。1558年のアンリ2世との約束に基づき、ニコルは1577年2月にアンリ3世王からアンリ・ド・サン=レミの結婚のための持参金として3万エキュを受け取っている[5]。
参考文献
[編集]- René de Belleval: Les Bâtards de la maison de France. Vivien, Paris 1901, S. 23–27 (online).
- Jean-François Dreux du Radier: Mémoires historiques, critiques, et anecdotes des reines et régentes de France. Band 4. Paul Renouard, Paris 1827, S. 340–341 (online).
- Gaston Sirjean: Encyclopédie généalogique des maisons souveraines du monde. Band 8. Paris 1963, ISBN 2-7777-0003-6.
脚注
[編集]- ^ R. de Belleval: Les Bâtards de la maison de France, S. 24.
- ^ Lucien Paul Victor Febvre: Philippe II et la Franche-Comté. Honoré Champion, Paris 1912, S. 491.
- ^ R. de Belleval: Les Bâtards de la maison de France, S. 23.
- ^ Société d’émulation du Doubs: Mémoires de la Société d’émulation du Doubs. 6. Reihe, Band 6. Dodivers & Cie., Besançon 1892, S. 108 (online).
- ^ Jean-Baptiste-Pierre Jullien de Courcelles: Dictionnaire universel de la noblesse de France. Band 4. Bureau général de la noblesse de France, Paris 1821, S. 155 (online).