ナラパティシードゥー
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ナラパティシードゥー နရပတိ စည်သူ | |
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パガン王朝第7代王 | |
在位 | 1174年5月? - 1211年8月18日 |
別号 | チャニャスー2世 |
出生 |
1150年10月8日 |
死去 |
1211年8月18日 |
配偶者 | ヴェルヴァティ |
子女 | ナンダウンミャー |
王朝 | パガン王朝 |
父親 | ナラトゥー |
宗教 | 上座部仏教 |
ナラパティシードゥー(Narapatisithu、1150年10月8日 - 1211年8月18日)は、パガン王朝の王(在位:1174年5月? - 1211年8月18日)。チャニャスー2世とも称される。伝説上の人物も含めると47代目の君主にあたる。
治世
[編集]パガン朝において重要な役割を果たした君主のなかで、最後の人物であると考えられ、スリランカとの抗争で混乱していた王国の統治を再び安定させた。その平和と繁栄のもとで独自のビルマ風文化が興隆し、ピュー文化やモン文化の残影から脱していった。彼の治世において主にビルマ文字が用いられるようになり、碑文にも「Mranma(ビルマ人)」という表現がみられるようになった。
祖父アラウンシードゥー(チャニャスー1世)は全ビルマを治める統一的な法体系を築こうとしたが、これを受け継いだナラパティシードゥーは、王令によって学僧Dhammavisalaに慣習法を編纂させた。
長年腕の腫瘍をわずらっていたが、苦しむ姿を見かねた卑賤の側室の一人がナラパティーシードゥーが寝入った後、側室自らの口をもって膿を吸い出した。その献身を嘉したナラパティーシードゥーは彼女の子を次代の王とすることを決めた。のちのナンダウンミャーである。