ナダン
ナダン(Nadan、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。
『元史』には立伝されていないが『申斎集』巻8大元宣武将軍韶州路達魯花赤愛不哥察児公神道碑にその事蹟が記され、『新元史』には大元宣武将軍韶州路達魯花赤愛不哥察児公神道碑を元にした列伝が記されている。
概要
[編集]ナダンはボルテ・チノ(蒼き狼)の血を引くとされるドルベン氏[1]の出で、その先祖はカラコルム(和林)から千里余り離れた「都剌合」の地に住まう部長の家系であった[2]。ナダンはチンギス・カンがモンゴル帝国を建国するとこれに服属し、左翼万人隊長のムカリの下に配属された。ナダンはムカリの下で主に金朝遠征に従事し、第一次侵攻では雲中・九原(太原)・遼西方面の経略に功績を挙げ、第二次侵攻では三峰山の戦いにも加わった。ナダンの向かうところ敵はなく、国王ムカリからも有能であると重用されていたという[3]。
子孫
[編集]ナダンは忽剌真氏を娶り、ヒンドゥ(忻都)とカラ(合剌)という2人の息子がいた。ヒンドゥは父の地位を継いでムカリの子孫達に仕え、亡くなった時もその代の国王(=ムカリ家当主)に深く追悼されたという。ヒンドゥの家系はこれ以後も繁栄したが、カラの家系はその息子のネウリン(紐隣)以後の動向は記録にない[4]。
ヒンドゥには9人の子供がおり、それぞれカラ(哈剌)、ドコルク(朶忽蘭)、痩痩児、阿里速、愛不哥察児、忽里罕、万奴、衆家奴、忙驢といった。皆勇敢なことで知られ、太宗オゴデイから世祖クビライに至る4朝の数々の征戦に加わった結果、重傷者1名・使者4名を出すに至った。阿里速は西域での戦いで重傷を負い、ネウリンと忽里罕、阿里速の子の高努は皆北征で戦死し、万奴は南征で死んだ。ヒンドゥの息子達の中で愛不哥察児のみが韶州路ダルガチを務めて72歳で亡くなるまで天寿を全うした[5]。
愛不哥察児は1308年(至大元年)に宣撫将軍・韶州路ダルガチの地位を授かり、1312年(皇慶2年)正月17日に亡くなって翌年8月に葬られた[6]。愛不哥察児は謝氏・茶失氏、8人の子を産んだ陳氏の3名を娶ったと伝わっており、ノガイ(納懐)、増城県ダルガチとなったタタルタイ(塔塔児台)、トクト(脱脱)、東平鎮守千戸となった住児、東莞県ダルガチとなったテムル(帖木児)、仁化県ダルガチとなった閭児教化、五十、六十、五人の娘がいたという[7]。
愛不哥察児の長男のノガイは廉直なことで知られ、クルク・カアン(武宗カイシャン)に見出されて監察御史に抜擢され、陝西行台・燕南河北道粛政廉訪副使・山北遼東道粛政廉訪副使・湖広等処行中書省左右司郎中・吉安路総管兼管内勧農事を歴任したと記録される[8]。
脚注
[編集]- ^ 村上1970,23/26頁
- ^ 屠寄『蒙兀児史記』巻153蒙兀氏族表下
- ^ 『申斎集』巻8大元宣武将軍韶州路達魯花赤愛不哥察児公神道碑,「太祖聖武皇帝受天明命、龍興朔方。於是、虎賁之臣・鷹揚之士雲合嚮赴、莫不策功帝室、流慶後嗣。有若達履伯氏者、在和林之外千餘里、以畜牧為富、以力勇為雄、世有都剌合之地、自推其豪為部長。至廼丹、聞太祖起兵、即率衆来附、詔隷大師国王、遂従収雲中・九原、取遼西、鏖金兵三峰山下、所向無前、国王以為能」
- ^ 『申斎集』巻8大元宣武将軍韶州路達魯花赤愛不哥察児公神道碑,「娶忽剌真氏、生二子。曰忻都、曰合剌。合剌生子紐隣而没。忻都以材武事太宗、又詔従太師国王、定地河朔・平陽、穀風土留、妻子居之。其後数有労、国王以為可大用。然再世立功、皆不獲、年而没、国王深悼之」
- ^ 『申斎集』巻8大元宣武将軍韶州路達魯花赤愛不哥察児公神道碑,「忻都有九子。曰哈剌、曰朶忽蘭、曰痩痩児、曰阿里速、曰愛不哥察児、曰忽里罕、曰万奴、曰衆家奴、曰忙驢、皆勇力絶人、謀智捷出。毎従征伐、常先諸軍。自太宗至世祖凡四朝、一門被重傷者一人、死事者四人。阿里速従伐西域、力戦重傷。上栄賜金帛有加、紐隣・忽里罕及阿里速之子高努、皆死北征。万奴死南征。惟愛不哥察児仕至韶州路達魯花赤、享年七十二」
- ^ 『申斎集』巻8大元宣武将軍韶州路達魯花赤愛不哥察児公神道碑,「其後為最盛、韶州公軒岸奇偉、美須髯、多謀略、然居王府恂恂謹飭。至大元年、薦授宣撫将軍・韶州路達魯花赤、到郡摧強拉暴以掖善類、黜貪屏悪以正人心、興学校以明教化、為舟梁以済病渉、君子頌其美、小人懐其恵、布政優優、若素習者、皇慶二年正月十七日卒於位。遠邇驚悼莫不唶、曰天遽奪吾良牧。明年八月某日嗣子納懐奉柩帰葬陽穀県東」
- ^ 『申斎集』巻8大元宣武将軍韶州路達魯花赤愛不哥察児公神道碑,「娶謝氏、継茶失氏二、陳氏生子八人。長納懐、次増城県達魯花赤塔塔児台、次脱脱、次東平鎮守千戸住児、次東莞県達魯花赤帖木児、次仁化県達魯花赤閭児教化、次五十、次六十。女五人」
- ^ 『申斎集』巻8大元宣武将軍韶州路達魯花赤愛不哥察児公神道碑,「納懐廉慎端直、正色立朝。武宗聞其名、拝監察御史、累遷陝西行台。経歴燕南河北道粛政廉訪副使、山北遼東道粛政廉訪副使、湖広等処行中書省左右司郎中、吉安路総管兼管内勧農事」