コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ナジェージダ・リムスカヤ=コルサコヴァ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナジェージダ・ニコラーイェヴナ・リームスカヤ=コールサコヴァ
基本情報
生誕 (1848-10-19) 1848年10月19日
出身地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクトペテルブルク
死没 (1919-05-24) 1919年5月24日(70歳没)
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ペトログラード
学歴 サンクトペテルブルク音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト作曲家
担当楽器 ピアノ

ナジェージダ・ニコラーイェヴナ・リームスカヤ=コールサコヴァロシア語: Надежда Николаевна Римская-Корсакова, ラテン文字転写: Nadezhda Nikolaevna Rimskaya-Korsakova 発音, 1848年10月19日1919年5月24日)は、ロシア帝国ピアニスト作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフと結婚して、後の音楽学者アンドレイ・リムスキー=コルサコフを産んだ。

生涯

[編集]

生い立ち

[編集]

本名はナジェージダ・ニコラーエヴナ・プルゴリト(Надежда Николаевна Пургольд / Nadežda Nikolaevna Purgol'd)といい、サンクトペテルブルクに3人姉妹の末っ子として生まれた。9歳でピアノを始め、ペテルブルク音楽院に進んでアントン・ゲルケに師事し[1]、研鑽を積む。そのほかに音楽院では、音楽理論ニコライ・ザレンバに、作曲と管弦楽法ニコライ・リムスキー=コルサコフに師事したが、卒業はしなかった[1]1860年代から1870年代にかけてアレクサンドル・ダルゴムイシスキー邸の夜の演奏会でピアノを弾き、ダルゴムイシスキー本人のほかに、モデスト・ムソルグスキーアレクサンドル・ボロディンと親交を結んだ[2]。ムソルグスキーは、ナジェージダとその姉アレクサンドラに好意を寄せて、この二人に近づくようになり[3]、ナジェージダを「我々のオーケストラ」と呼んだ [1]。自宅の集会でも演奏し、ミリイ・バラキレフや、「五人組」のその他の同人の作品を披露した[1]。中でも「五人組」と一緒に演奏したのが、ムソルグスキーの歌劇《結婚[4] や《ボリス・ゴドノフ》のほか、リムスキー=コルサコフの《プシコフの娘》であった[5]

結婚

[編集]

ナジェージダは、1868年の春にリムスキー=コルサコフに見染められる。初めて知り合って間もなくリムスキー=コルサコフは歌曲を1つ創ってナジェージダに捧げた。また、サンクトペテルブルクのプルゴリト邸だけでなく、プルゴリト家の避暑地ルィエスノフの別荘にも足繁く訪れている[6]。ナジェージダもリムスキー=コルサコフに温かく穏やかな人となりを認めた[7]1871年12月に婚約し[8]1872年7月に二人は晴れて結婚した[9]。新郎の付添役はムソルグスキーだった[10]。新郎新婦は仲睦まじく、ゆくゆくは7人の子供を儲けることになる。

ナジェージダは、クララ・シューマンに対してそうだったように、家庭内の伴侶であると同時に、音楽面でも協力者だった[9]。美しく、聡明で、強い意志を持ち、結婚当時は夫よりも音楽面ではるかに特訓されていた[9]ナジェージダは、夫の作品の優秀だがうるさ型の批評家だった。作品の題材において夫への影響があまりにも強かったために、バラキレフやスターソフは、ナジェージダのせいでリムスキー=コルサコフが、自分たち「五人組」の音楽的な好みから、道を踏み外してしまわないかと訝しむほどだった[11]。結婚後のナジェージダは、次第に作曲を諦めるようになったが、それでもリムスキー=コルサコフの最初の3つの歌劇は、かなりナジェージダの影響が認められる[12]。彼女は夫に協力して、リハーサルに出席し、校閲し、夫やそれ以外の作曲家の作品を編曲した[12]。ナジェージダがニコライ・ゴーゴリの作品に熱狂すると、夫やその友人たちの楽曲にも影響するようになった[13]。まだ婚約中のある日に、二人はゴーゴリの短編小説『五月の夜、または溺れた娘』を一緒に読んでいた。その後ナジェージダはリムスキー=コルサコフに、『五月の夜』を原作に歌劇を作曲するよう提案した[13]。それから1・2週間すると、彼女は未来の花婿に手紙で次のように書き送っている。曰く、「まだもう一つのゴーゴリの小説を読んでいます。今日のは『ソロチンスクの市』です。これも良い作品ですし、オペラに打ってつけでもあるでしょう。でも、“貴方”のにではありません。いずれにせよ、『五月の夜』とは別物です。私の頭はそいつに釘付けで、そいつときたら、どうしても頭の中から離れようとはしてくれないのです[13]。」当時ムソルグスキーに『ソロチンスクの市』のオペラ化を提案したのは、彼女か、さもなくば姉のアレクサンドラであったろう[13]。ムソルグスキーは当時は取り組まなかったのだが、2年ほどして考え直したのであった[13]

ナジェージダは、リムスキー=コルサコフの社会生活においても非常に目立つ存在で[2]主婦としても演奏家としても、リムスキー=コルサコフ邸の集会を切り盛りした[14]。ある夜の席で、ピョートル・チャイコフスキーが自作の《「小ロシア」交響曲》の終楽章を披露すると[15]、ナジェージダはそれを聞き終えてから、涙ながらに作曲者に、自分にその編曲を任せてくれないかと訴えるのだった[15]。運悪く病気に邪魔されたために、結局チャイコフスキー自身が《小ロシア》を編曲することになった[16]

アレクサンドル・グラズノフは、自作の《ピアノソナタ第1番》作品74(1901年)をナジェージダに献呈した。

明け透けさ

[編集]

後年は夫と同じく、ナジェージダも音楽観があまり進歩的でなくなり、娘婿のマクシミリアン・シテインベルクに比べてイーゴリ・ストラヴィンスキーは頼りないと評価した。目に見えて物事に無神経になっていたのかもしれない。後にストラヴィンスキーは、リムスキー=コルサコフの葬儀で起こったある出来事について、次のように記している。

記憶力がある限り、リムスキーが埋葬された場面を僕は忘れないだろう。彼の見た目がとても美しかったので、僕は涙をこらえることができなかった。リムスキーの未亡人ときたら、僕を見て、近寄ってきて言ったんだ。『何がそんなに悲しいの?私たちにはグラズノフがいるでしょ』。こんなに惨い言葉は聞いたことがないし、あの時ほどに憎悪を感じた言葉は二度となかった[17]

彼女が物怖じせずに心の内を明かしたのは、これが初めてではなかった。夫に関することには非常に忠実だった。アントン・ルビンシテイン1887年ペテルブルク音楽院院長職に返り咲いて、ロシア人教授に代わって外国人教授を抜擢するようになると、ウラディーミル・スターソフは、「偉大な支配者様」に向かってリムスキー=コルサコフにひれ伏させるという考えに憤慨した。スターソフは、リムスキー=コルサコフ宛てに「連中と音楽院やルビンシテインとの関係は中央集権的だ(しかもツェーザリ・キュイに便乗すれば、完全な変節だ)」と書き送ったことをバラキレフに打ち明けている[18]。スターソフの手紙が届いた時、リムスキー=コルサコフはボロディンの遺作の歌劇《イーゴリ公》の仕上げに励んでいるところだった。返信はナジェージダが買って出た。

あなたの勇み足の毒舌は、お門違いで、噴飯ものですらあります……。他人について書く前に、事実調べをなさい。何の権利があって、宅の基本行動を変節などと疑うのでしょう? 善人にはどうにも分かりません。宅についての誹謗中傷をあなたに御注進する件の輩のために、宅を否定して叱りつけておいでのご様子。日常のあらゆる状況において、宅が気高く、誇り高く振る舞うことができるように、誰からも宅が指図されないことを望みますわ。なぜなら、彼には彼なりに充分に気位や知性が備わっているのですから[19]

リムスキー=コルサコフが1908年に歿するや否や、ナジェージダは夫の著作物や楽曲についての遺言執行者となった[2]。そこには、遺作となった亡夫の著作や楽曲の校正と出版という、かなりの仕事も含まれていた[2]。自叙伝『わが音楽の生涯』や論文集、楽譜、友人たちとの往復書簡などがその対象だった[2]。ナジェージダは、夫の遺産の保管に余生を捧げ[2]ロシア・バレエ団が《シェヘラザード》や《金鶏》をバレエ化した際には、セルゲイ・ディアギレフに抗議している[20]

最期

[編集]

夫の死から11年後、ナジェージダはロシア革命後のペトログラードにおいて、天然痘により息を引き取った[2]。70歳だった。彼女はノヴォデヴィチ女子修道院の墓地の夫の隣に埋葬されたが、1936年アレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に、夫と共に改葬された。同墓地には五人組の他に、チャイコフスキーとグラズノフも埋葬されている。

歿後は息子アンドレイが亡母の尽力を受け継ぎ、亡父の生涯や作品について、複数の巻に及ぶ研究書を執筆している。

創作

[編集]

作曲

[編集]

ゴーゴリによる交響的絵画《魔法にかかった土地(ロシア語: Заколдванное мест)》や、歌劇《真夏の夜》のボーカルスコア、ピアノ曲や歌曲の自筆譜が現存する[12]。《魔法にかかった土地》が完成したのは結婚の1・2週間前のことだが、楽器配置を実施したのは翌年になってからである[13]。リムスキー=コルサコフと結婚してからは作曲を止めた[1]。夫の作品との好意的でない比較一部は原因があろうが、身内の反応にも原因はあるかもしれない[1]

編曲

[編集]

オーケストラ用の総譜の簡約化の仕方はダルゴムイシスキーに教わっている[1]。ナジェージダは、簡約編曲の作業に才能や適性を見せており、それらを大いに利用して編曲した。彼女の(ピアノ4手用の)編曲は、ダルゴムイシスキーやリムスキー=コルサコフだけでなく、チャイコフスキーボロディングラズノフまでを取り上げている[1]。歌劇の編曲では、リムスキー=コルサコフの《プスコフの娘》や《女貴族ヴェラ・シェロガ》のボーカルスコアや[1]、夫やグラズノフとの合作による、ボロディンの《イーゴリ公》のボーカルスコアといった例がある[21]

著作関連

[編集]

ナジェージダ・リムスカヤ=コルサコヴァは、ダルゴムイシスキーの2巻の回想録を出版し、またムソルグスキーの言行録を書き遺し、夫の自叙伝『わが音楽の生涯』を校訂している[1]

註記

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j Brown, Malcolm Hamrick, ed. Julie Anne Sadie and Rhian Samuel, The Norton/Grove Dictionary of Women Composers (New York and London: W.W. Norton & Company, 1995), 391.
  2. ^ a b c d e f g Rimsky-Korsakov, Preface xxxix.
  3. ^ Brown, David, The Master Musicians: Mussorgsky, His Life and Works (Oxford and New York: Oxford University Press, 2002), 195.
  4. ^ Brown, Mussorgsky, 109.
  5. ^ Brown, Mussorgsky, 206-207.
  6. ^ Rimsky-Korsakov, 96.
  7. ^ Diary entry for September 10, 1870, as quoted in Orlova, Alexandra, Mussorgsky's Works and Days: a Biography in Documents (Bloomington and Indianapolis, 1983), 202-203.
  8. ^ Rimsky-Korsakov, 125.
  9. ^ a b c Abraham, Gerald, ed. Stankey Sadie, The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 20 vols. (London: MacMillian, 1980), vol. 16, 28-29.
  10. ^ Brown, David, Mussorgsky, 213.
  11. ^ Frovola-Walker, New Grove (2001), 21:401.
  12. ^ a b c Neff, 423.
  13. ^ a b c d e f Calvocoresssi, M.D. and Gerald Abraham, Masters of Russian Music (New York: Tudor Publishing Company, 1944), 360.
  14. ^ Rimsky-Korsakov, 147.
  15. ^ a b Brown, David, Tchaikovsky: The Early Years, 1840-1874 (New York, W.W. Norton & Company, Inc., 1978), 255
  16. ^ Brown, Tchaikovsky: The Early Years, 256
  17. ^ White, 13.
  18. ^ Balakirev and Stasov, Perepiska, 2:105.
  19. ^ Orlova, Alexandra and V.N. Rimsky-Korsakov.
  20. ^ Rimsky-Korsakov, 320 ft.
  21. ^ Rimsky-Korsakov, 290.

参考文献

[編集]
  • Abraham, Gerald, ed. Stankey Sadie, The New Grove Dictionary of Music and Musicians, 20 vols. (London: MacMillian, 1980). ISBN 0-333-23111-2.
  • Brown, David, The Master Musicians: Mussorgsky, His Life and Works (Oxford and New York: Oxford University Press, 2002). ISBN 0-19-816587-0.
  • Brown, David, Tchaikovsky: The Early Years, 1840-1874 (New York: W.W. Norton & Company, Inc., 1978). ISBN 0-393-07535-4.
  • Brown, Malcolm Hamrick, ed. Julie Anne Sadie and Rhian Samuel, The Norton/Grove Dictionary of Women Composers (New York and London: W.W. Norton & Company, 1995). ISBN 0-393-03487-9.
  • Calvocoressi, M.D. and Gerald Abraham, Masters of Russian Music (New York: Tudor Publishing Company, 1944). ISBN n/a.
  • Orlova, Alexandra, Mussorgsky's Works and Days: a Biography in Documents (Bloomington and Indianapolis, 1983).
  • Rimsky-Korsakov, Nikolai, Letoppis Moyey Muzykalnoy Zhizni (St. Petersburg, 1909), published in English as My Musical Life (New York: Knopf, 1925, 3rd ed. 1942). ISBN n/a.
  • ed. Stankey Sadie, The New Grove Dictionary of Music and Musicians, Second Edition, 29 vols. (London: MacMillian, 2001). ISBN 1-56159-239-0.
    • Frovola-Walker, Marina, "Rimsky Korsakov. Russian family of Musicians. (1) Nikolay Andreyevich Rimsky-Korsakov."
    • Neff, Lyle, "Rimsky Korsakov. Russian family of musicians. (2) Nadezda Rimskaya-Korsakova."

外部リンク

[編集]