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ドン・ブッサン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドン・ブッサン
Donalld Bussan
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1933-06-13) 1933年6月13日(91歳)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1951年
初出場 1955年
最終出場 1955年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ドナルド・A・ブッサン(Donalld A. Bussan、1933年6月13日 - )は、アメリカ出身の元プロ野球選手外野手)。

経歴

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来日以前はマイナーリーグでプレー。1954年はC級ウエストテキサス・ニューメキシコリーグ英語版ラボックハバーズ英語版に在籍していた。

1955年に前年限りで帰国したジミー・マケーブの穴を埋めるために高橋ユニオンズ(トンボ)へ入団。ユニオンズ入団にはブッサン本人による強引とも言える売り込みがあったといい、契約時には金満家を自称し「報酬などどうでも良い」と述べたという。契約期間は7ヶ月で月収は10万円(なお、当時の給与所得者の平均年収の半分に相当したが[1]、後述のホテル宿泊費だけで殆ど消えてしまう額でもあった[2])。来日中は終始帝国ホテルで生活をしていた「変わり者」であったという[3]

当初は3番を期待され、打撃は「当たれば飛ぶ」タイプで188打数で6本塁打(チーム2位)を記録した長打力が魅力だったが、確実性には欠けており打率は低迷した。また、高橋が弱小球団だったためか無気力プレーが目立ったとされる。しかし、外国人がまだ少なかった当時、サル・レッカ共々人気はあった。守備は外野を守る際一歩前進してからバックしていた。ある試合で左翼手を務めた際、ゴロヒットをトンネルしてしまい塀に向かって走ったが、塀に当たってはね返ってきたボールをまたトンネルし、ショートが拾うという珍プレーをした[4]

ヴィクトル・スタルヒンが現役最後となる通算82個目の完封を挙げた1955年4月13日の対大映スターズダブルヘッダー第二戦では、ブッサンは先制タイムリーヒットを放ち、スタルヒンの勝利を援護している[3]

同年オフに退団。帰国した。

帰国後の消息は判然としないが、ステュー・ソーンリー英語版の記述に依ると、ブッサンは1961年当時ロサンゼルス近郊のノース・ハリウッド・レクリエーション・センター英語版にて職員として勤務していたという。ブッサンは施設内の野球場に通って自主トレを行っていた野球選手と思われる一人の若者に声を掛け、自身の日本での経験等も元にした個人指導を実施。「今後メジャーに昇格してから払ってくれれば良い」と施設の入場料一切を肩代わりした。この若者こそ後にメジャーリーグユーティリティープレイヤーとして活躍し、モントリオール・エクスポズの創設メンバーとしても名を連ねる事になるロン・ブランド英語版であった。ブランドはソーンリーに、マイナーリーグで低迷し進退を考えていた時期のブッサンとの出会いを「自分の野球人生における転換点であった」と述懐している[5]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1955 トンボ 76 204 188 13 42 11 0 6 71 26 2 1 2 3 11 0 0 46 5 .223 .266 .378 .644
通算:1年 76 204 188 13 42 11 0 6 71 26 2 1 2 3 11 0 0 46 5 .223 .266 .378 .644

背番号

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  • 61 (1955年)
  • 32 (1955年途中)

脚注

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  1. ^ 明治~平成 値段史
  2. ^ 戦後昭和史 - ホテル料金の変遷
  3. ^ a b 長谷川[2011: 53]
  4. ^ 忘れ得ぬ外国人選手たち~ロッテ60s
  5. ^ ステュー・ソーンリー『McFarland Historic Ballparks 05, The Polo Grounds: Essays and Memories of New York City's Historic Ballpark, 1880-1963』マクファーランド・アンド・カンパニー、2019年2月19日、133-134頁。

参考文献

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長谷川晶一『最弱球団:高橋ユニオンズ青春記』白夜書房、2011年

関連項目

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外部リンク

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