ドロテア・シャルロッテ・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ
表示
ドロテア・シャルロッテ・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ Dorothea Charlotte von Brandenburg-Ansbach | |
---|---|
出生 |
1661年11月28日 神聖ローマ帝国 アンスバッハ辺境伯領、アンスバッハ |
死去 |
1705年11月15日(43歳没) 神聖ローマ帝国 ヘッセン=ダルムシュタット方伯領、ダルムシュタット |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ヘッセン=ダルムシュタット方伯領、ダルムシュタット市教会 |
配偶者 | ヘッセン=ダルムシュタット方伯エルンスト・ルートヴィヒ |
子女 |
ドロテア・ゾフィー ルートヴィヒ8世 カール・ヴィルヘルム フランツ・エルンスト フリーデリケ・シャルロッテ |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
父親 | ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯アルブレヒト |
母親 | ゾフィー・マルガレーテ・フォン・エッティンゲン=エッティンゲン |
ドロテア・シャルロッテ・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ(Dorothea Charlotte von Brandenburg-Ansbach, 1661年11月28日 - 1705年11月15日)は、ドイツのブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯家の侯女で、ヘッセン=ダルムシュタット方伯エルンスト・ルートヴィヒの妻。
生涯
[編集]ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯アルブレヒトとその2番目の妻でエッティンゲン=エッティンゲン伯ヨアヒム・エルンストの娘であるゾフィー・マルガレーテ(1634年 - 1664年)の間の第4子、次女として生まれた。父にとっては5番目の娘である。1687年12月1日にダルムシュタットにおいて、エルンスト・ルートヴィヒと結婚した。
ドロテア・シャルロッテは熱心な敬虔主義の信奉者であり、宗教政策の面で夫に大きな影響力を及ぼした。方伯夫人は敬虔主義の創始者フィリップ・シュペーナーの支援者として活動したため、宮廷や邦立大学の抗議を受けることになった。ドロテア・シャルロッテの死後、エルンスト・ルートヴィヒは敬虔主義に対する態度を硬化させた。方伯夫人の遺骸はダルムシュタット市教会(Stadtkirche (Darmstadt))に葬られた。
子女
[編集]夫との間に2男3女の5人の子女をもうけた。
- ドロテア・ゾフィー(1689年 - 1723年) - 1710年、ホーエンローエ=エーリンゲン伯ヨハン・フリードリヒと結婚
- ルートヴィヒ8世(1691年 - 1768年) - ヘッセン=ダルムシュタット方伯
- カール・ヴィルヘルム(1693年 - 1707年)
- フランツ・エルンスト(1695年 - 1717年)
- フリーデリケ・シャルロッテ(1698年 - 1777年) - 1720年、ヘッセン=カッセル公子マクシミリアンと結婚
参考文献
[編集]- Gustav A Benrath, Martin Brecht: Pietismus und Neuzeit Bd. 13 Vandenhoeck & Ruprecht S. 191 f.
- Martin Brecht: Geschichte des Pietismus S. 412
- Heinrich Zehfu: Alterthümlichkeiten der Residenzstadt Darmstadt S. 69 f.