コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ドルチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ドルチ(モンゴル語: Dorči、? - 1313年)とは、モンゴル帝国に仕えたタングート人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では朶児赤(duŏérchì)と記される。

概要

[編集]

ドルチの父斡札簀は元々西夏国に仕えて国史の編纂を行っていた人物であったが、モンゴル帝国の侵攻に当たって西涼の守備につき、そこで現地の父老とともにモンゴルに投降した。モンゴルへの投降後は中興路の管民官に任じられ、モンゴル軍が西方に遠征する際には一度として中興路の兵を滞らせたことがなかったため賞賛されたという[1]

斡札簀の息子ドルチは15歳にして『論語』・『孟子』・『尚書』に通じ、その才を聞いたクビライによって召還され、その際の間答を気に入ったクビライによって中興路新民総管に任命された。現地に赴任したドルチは新田の開拓や治水によって税の収入を倍増させたという[2]

それからほどなくして、今度は雲南廉訪副使に任じられて雲南地方に赴任した。この頃の雲南地方では諸民族が反乱を起こしており、多くの同僚が任務を投げ出して逃走する中で、ドルチのみは逃げ出さなかった。また、この頃の雲南行省では官吏が異民族どうしの争いに介入し、賄略を受け取ってある民族を助けたり、敵対する民族を討伐対象にしたりする行為が横行していたため、ドルチはこのような行為を弾劾して遂にやめさせたという。その後、在官のままドルチは62歳で亡くなった。息子は仁通といい、父の地位を継いで雲南省理問となった。1329年(天暦2年)には雲南諸王が反乱を起こし、仁通はこの反乱の鎮圧にあたったが、この時の戦いで亡くなった[3]

脚注

[編集]
  1. ^ 『元史』巻134列伝21朶児赤伝,「朶児赤字道明、西夏寧州人。父斡札簀、世掌其国史。初守西涼、率父老以城降太祖、有旨副撒都忽為中興路管民官。国兵西征、運餉不絶、無毫髪私、時号曰満朝清。世祖即位、斡札簀寝疾卒。遺奏因高智耀以進、請謹名爵・節財用、帝嘉納焉」
  2. ^ 『元史』巻134列伝21朶児赤伝,「朶児赤年十五、通古注論語・孟子・尚書。帝以西夏子弟多俊逸、欲試用之、召于見香閣、帝曰『朕聞儒者多嘉言』。朶児赤奏曰『陛下聖明仁智、奄有四海、唯当親君子、遠小人爾。自古帝王未有不以小人而亡者、惟陛下察焉』。帝曰『朕於廷臣有戇直忠言、未嘗不悦而受之。違忤者、亦未嘗加罪。蓋欲養忠直、而退諛佞也。汝言甚合朕意』。因問欲何仕、朶児赤対曰「西夏営田、実占正軍、儻有調用、則又妨耕作。土瘠野壙、十未墾一。南軍屯聚以来、子弟蕃息稍衆、若以其成丁者、別編入籍、以実屯力、則地利多而兵有餘矣。請為其総管、以尽措画』。帝可之、乃授中興路新民総管。至官、録其子弟之壮者墾田、塞黄河九口、開其三流。凡三載、賦額増倍、就転営田使。秩満入覲、帝大悦、陞潼川府尹。時公府無禄田、朶児赤乃以官曠地給民、視秩分畝、而薄其税。潼川仕者有禄、自此始」
  3. ^ 『元史』巻134列伝21朶児赤伝,「未幾、台臣奏為雲南廉訪副使。時雲南諸蛮叛、僚佐悉称故而去、朶児赤独居守。又八月、省臣大懼、帰符印欲遁、朶児赤乃白于梁王、得檄而後出。遷山南廉訪副使、未幾、復調雲南廉訪使。会行省丞相帖木迭児貪暴擅誅殺、羅織安撫使法花魯丁、将置于極刑、朶児赤謂之曰『生殺之柄、繋于天子、汝以方面之臣而専殺、意将何為。小民罹法、且必審覆、況朝廷之臣耶』。法花魯丁竟獲免、尋復其官。僰夷与蛮相讎殺、時省臣受賄、助其報讎、乃詐奏蛮叛、起兵殺良民。朶児赤奏劾、竟廃之。年六十二、卒于官。子仁通、為雲南省理問。天暦二年三月、雲南諸王与万戸伯忽等叛、仁通率官軍抗之、没於陣」

参考文献

[編集]