ドミトリー・ラヴリネンコ
ドミトリー・フョードロヴィチ・ラヴリネンコ Дмитрий Фёдорович Лавриненко | |
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生誕 |
1914年9月10日 ロシア帝国 クバン州 |
死没 | 1941年12月18日 |
所属組織 | 赤軍 |
軍歴 | 1938–1941 |
最終階級 | 親衛上級中尉 |
ドミトリー・フョードロヴィチ・ラヴリネンコ(ロシア語: Дмитрий Фёдорович Лавриненко、1914年9月10日 - 1941年12月18日)は、ソヴィエト連邦の軍人。最終階級は親衛上級中尉。
経歴
[編集]クバーニ・コサック軍の血を引くラヴリネンコは、1914年9月10日にロシア帝国クバン州に生まれた。1938年5月にウリヤノフスク戦車学校を卒業した彼は、ソ連のポーランド侵攻やベッサラビア併合に従軍した。
1941年、ナチスドイツによる侵攻で独ソ戦が始まるとT-34/76を任されたラヴリネンコは58両ものドイツ側の戦車や自走砲を撃破し、ソ連陸軍内で最も成果を上げた戦車エースとなった。この記録はドイツによるバルバロッサ作戦展開中、T-34を受領してから彼が死亡するまでの僅か2ヵ月半でなされたものである。
1941年12月18日、ラヴリネンコはゴリュニの村を解放した。しかし直後、ドイツ軍による激しい砲撃が村に加えられた。彼はその時、村を解放した旨を第17装甲旅団の司令官に報告するため、T-34の車外に出ていた。そのため彼にドイツ軍が放った迫撃砲弾の破片が直撃し、ラヴリネンコは戦死した。
1990年5月5日、ラヴリネンコはソ連邦英雄に列せられている。
ラヴリネンコによる戦車撃破数は、同時期に活躍したドイツのミハエル・ヴィットマン(戦車138両、対戦車砲132門撃破)やオットー・カリウス(戦車150両撃破)に比べると少ない印象を持つ。しかしこれは、他の戦車エースが大戦を通して打ち立てたものに対し、ラヴリネンコは前述の通り2ヵ月半で打ち立てたものであるためである。また、連合国の兵士は他に誰一人として、この短期間にこれだけの記録を出すことができなかった[1]。
叙勲
[編集]脚注
[編集]- ^ Smirnov, Aleksandr (2002). “[Tank Ace Dmitry Lavrinenko]” (ロシア語). Танкомастер 3: 6–9 2014年11月11日閲覧。.
外部リンク
[編集]- "ドミトリー・ラヴリネンコ". Герои страны ("Heroes of the Country") (ロシア語).
- Soviet Tank Aces