ドゥマーギーン・ソドノム
ドゥマーギーン・ソドノム Думаагийн Содном | |
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生年月日 | 1933年7月14日(91歳) |
出生地 | モンゴル人民共和国 ドルノゴビ県ウルゲン |
出身校 |
財政・経済専門学校 イルクーツク財政・経済高級学校 |
前職 |
モンゴル人民共和国首相 副首相 国家計画委員会議長 蔵相 大蔵省主計官 |
所属政党 | モンゴル人民革命党 |
称号 | 旭日大綬章 |
在任期間 | 1984年12月12日 - 1990年3月12日 |
ドゥマーギーン・ソドノム(ドゥマーギイン・ソドノム、ドマーギン・ソドノム、モンゴル語: Думаагийн Содном、ラテン文字転写の例:Dumaagiin Sodnom、1933年7月14日 - )は、モンゴル人民共和国の政治家。1984年から1990年まで、モンゴル人民共和国閣僚会議議長(首相)を務めた[1]。
経歴・人物
[編集]1933年7月14日、ドルノゴビ県ウルゲンに誕生する。1942年に東モンゴルのヘンティー県バヤンムンフ郡に移り、小学校に入学する。1946年にウランバートルに上京し、当初、芸術関係の学校に進学する予定であったが、叔父が学んでいた財政・経済専門学校(テクニカルカレッジ)予科に入学する。1950年に「国家付き会計士」の資格を取得し財政・経済専門学校を卒業した。卒業後は大蔵省に採用され、監査局監査官として4年間勤務した。また、大蔵省勤務中に10年制第2学校夜間部で学び1953年に卒業した。1954年にはモンゴル人民革命党に入党した。1954年にソ連に留学し、イルクーツク財政・経済高級学校(イルクーツク財務学院)で経済学を学び、1958年7月にヴェーラ夫人と結婚。同年8月に同校を修了した[1]。
帰国後は大蔵省に復職し、通貨課長を経て、1963年に30歳の若さで蔵相に任命される。1969年に国家計画委員会第一副議長を経て、1972年に同委員会議長。1974年に閣僚会議副議長(副首相)に就任する[1]。
1984年12月12日、閣僚会議議長(首相)に就任する。この年にユムジャーギーン・ツェデンバルが失脚し、ソドノムの盟友でもあったジャムビィン・バトムンフが政権を握ると、ソドノムは人民革命党政治局員にもなり、名実共にバトムンフに次ぐナンバー2になった。ソドノムはバトムンフと共に体制内改革に着手するが、1989年から1990年にかけて行われたモンゴル民主化運動により、1990年3月21日に首相と党政治局員を辞任した[1]。
首相辞任後は、1990年から2001年までカザルィン・トス石油会社の取締役を務めた[2]。また、その間、1992年には、ポンツァギーン・ジャスライ首相の顧問を務めた[1]。
対日関係
[編集]日本との関係では、首相時代の1990年3月にモンゴルの首脳として初めて来日している[3]。その後も日本・モンゴル関係促進協会会長を務めている。2005年には日蒙友好親善関係に尽くした功労で旭日大綬章を受章している[4]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e アラン・J.K.サンダース 1996
- ^ 鯉淵信一『民主化進展下の経済的苦脳 : 1990年のモンゴル』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1991年版〉、1991年、99-114頁。doi:10.20561/00038946。hdl:2344/00002125。ISBN 9784258010912 。「ZAD199100_005」 なお、このサイトによると石油公団総裁となっている。
- ^ “要人来日日程(平成10年)、モンゴル国バガバンディ大統領来日特集、II.日本とモンゴル1.両国の関係(2)”. 外務省. 2013年9月24日閲覧。
- ^ 「D.ソドノム : モンゴルにおける社会主義的発展の幕を引いた政治家」『国立民族学博物館調査報告』第71巻、国立民族学博物館、2007年8月、291-335頁、CRID 1390009224820710272、doi:10.15021/00001403、hdl:10502/2013、ISSN 1340-6787。
参考文献
[編集]- アラン・J.K.サンダース(Sanders, Alan J. K.) (1996). Historical dictionary of Mongolia [抄訳:モンゴル歴史辞典]. Asian historical dictionaries. Scarecrow Press. ISBN 0-8108-3077-9. NCID BA27918679
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