トーマス・クロート
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Thomas Kroth | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1959年8月26日(65歳) | |||||
出身地 | エアレンバッハ・アム・マイン | |||||
身長 | 177cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
1967-1976 | エアレンバッハ | |||||
1976-1977 | オッフェンバッハ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1977-1978 | オッフェンバッハ | 1 | (0) | |||
1978-1982 | ケルン | 56 | (2) | |||
1982-1985 | E・フランクフルト | 74 | (13) | |||
1985-1989 | ハンブルガー | 73 | (6) | |||
1989-1991 | ドルトムント | 56 | (0) | |||
1991 | フラウエンシュタイン | |||||
代表歴 | ||||||
ドイツ U-21 | 13 | (1) | ||||
1985 | ドイツ | 1 | (0) | |||
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トーマス・クロート(Thomas Kroth、1959年8月26日 - )は、ドイツ出身の元サッカー選手、サッカー代理人。
選手経歴
[編集]1977年に当時2部リーグ所属のキッカーズ・オッフェンバッハでデビュー。翌年1978年に1.FCケルンへ移籍しブンデスリーガデビューを果たし、ベルント・シュスター、ピエール・リトバルスキーとともに“ケルンの若き三羽ガラス”と称された。以後クロートは3つの異なるクラブでDFBポカールのタイトルを獲得している。
また、ケルン時代には奥寺康彦ともプレー。 その後・アイントラハト・フランクフルト、ハンブルガーSV、ボルシア・ドルトムントといったクラブで活躍。左足から放たれる強力なロングシュートでも名の通ったMFであった。
1985年のハンガリー戦にてフランツ・ベッケンバウアー監督のもとで西ドイツ代表デビューを果たした。当時の代表メンバーには、ハラルト・シューマッハーやオラフ・トーン、ウリ・シュタイン、フェリックス・マガト、カール=ハインツ・ルンメニゲ、ルディ・フェラー、ローター・マテウス、ピエール・リトバルスキーなどの顔ぶれが揃っていた。
ボルシア・ドルトムントでの1989-90シーズンを最後に現役引退。現在はドイツサッカー連盟公認の選手代理人として活動。代理人事務所「PRO Profil」の代表を務め、スポーツ選手の代理人業務を行っている。
代理人経歴
[編集]1992年、西ドイツ代表時代のチームメイトでもあるピエール・リトバルスキーに請われる形で代理人として第2の人生を踏み出し、ドルトムントに会社を設立。現在ではドイツ全土に4つのオフィスを構え、国内だけでなく、スペイン、フランス、オランダ、クロアチアなど、ヨーロッパ各国に独自のネットワークを持つに至っている。2010年現在専属契約選手は21人。ドイツでは通常、ユースチーム時代に契約し10年間は面倒をみることを旨としている。
主にドイツ国内選手や欧州選手に関わるが、2003年の高原直泰のハンブルガーSVへの移籍を始めとして、日本人選手のドイツへの移籍のほとんどに関わっている。日本との最初の接点はピエール・リトバルスキーをジェフ市原(当時)に移籍させたことが切っ掛けとなった。
日本人契約選手
[編集]トーマス・クロートは日本人選手とは主にドイツ側(ブンデスリーガ)の代理人として関わっている(日本側にも代理人がいる)。トーマス・クロートのPRO profil GmbH専属契約選手は現在、香川真司のみである。
契約中の選手
かつて契約をしていた選手
出典
[編集]- 木崎伸也 「次代の越境者を探せ」Sports Graphic Number765号、文藝春秋、2010年、52-55頁。
- Sports Graphic Number 763号
- <敏腕代理人インタビュー> トーマス・クロート 「私が日本人をドイツに送り込める理由」 - Number Web(更新日: 2010年12月21日)
- トーマス・クロート日本公式サイト