デュケーヌ砦の戦い
デュケーヌ砦の戦い | |||||
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フレンチ・インディアン戦争中 | |||||
イギリス軍によるデュケーヌ砦跡地の占領 | |||||
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衝突した勢力 | |||||
フランス王国 | グレートブリテン王国 | ||||
指揮官 | |||||
フランソワ=マリー・ル・マルシャン・ド・リグネリ | ジェームズ・グラント | ||||
戦力 | |||||
民兵と先住民兵500 |
正規兵400 民兵350 | ||||
被害者数 | |||||
戦死8 負傷8[1] |
戦死104[2] 負傷220[2] 捕囚18 | ||||
デュケーヌ砦の戦い(デュケーヌとりでのたたかい、仏 Bataille de Fort Duquesne、英 Battle of Fort Desquene)、またはデュケイン砦の戦いは、フレンチ・インディアン戦争中の1758年9月14日に行われた戦闘である。
概要
[編集]デュケーヌ砦への遠征
[編集]この砦への攻撃は、イギリス軍指揮官ジョン・フォーブズによる大規模な遠征の一環だった。フォーブズが、カンバーランド砦とメリーランド西部で6,000人の兵を集め、これにジョージ・ワシントンを含めたバージニア民兵2000人の部隊も加わった。守りの弱いデュケーヌ砦は彼らの遠征の最大の標的であったが、ブラドック遠征路を行くか、北の道を行くかでもめ、ワシントンはブラドック遠征路を主張したが、結局別の道を進むことになった。この行軍は難航した。[3] また、フォーブズは病気のため、進軍を指揮したのは副指揮官のアンリ・ブーケだった[4]。
戦闘
[編集]1758年9月11日、イギリス軍少佐ジェームズ・グラントは、800人以上の兵を連れて、フォーブズの主力部隊の前方にあたるデュケーヌ砦の周辺を偵察した[5]。副指揮官のブーケは、500人のフランス兵と、同盟関係にある300人の先住民兵がこの砦に駐屯しており、グラントの分遣隊の攻撃では、手に負えないだろうと思っていた。9月13日、砦の近くにグラントが到着した。彼は、砦の中には200人もいないと信じ込んでおり、偵察に50人という少人数部隊を派遣した。[6] 砦の中に敵は見当たらず、中の倉庫を焼いて、砦から2マイル(3キロ)の、グラントのいる拠点に戻って来た[7]。
翌朝、マクドナルド大尉の中隊が、敵をおびき出すため、太鼓を鳴らしながら砦に近づいた。マクドナルド隊に攻撃を仕掛けるため、砦から出てきたフランス兵と先住民兵は[4]、予想をはるかに上回る規模で、しかも敏捷に動いた。イギリス軍は3部隊に分けられていたが[4]、マクドナルド率いる囮の軍は圧倒され、フランス軍は、待ち伏せしていたアンドリュー・ルイスのバージニア民兵隊の位置をつかみ、襲いかかった。ルイス隊はその場から離れ、他の兵の助けを求めたが、フランス軍と先住民とは、それまでに、敵よりも有利な展開を行って、彼らを退散させた。先住民たちは、自分たちの得意とする森林でのゲリラ戦を展開した。「先住民たちは、茂った木の葉の陰に身を潜め、破壊的な射撃を行い、それは必ず何らかの効果をもたらした」[8] 森の中の一方的な戦いで、イギリスとニューイングランド植民地の軍は342人の死傷者を出した。また、77連隊から、グラントを始め232人が捕えられた[9]。ルイス率いるバージニア分遣隊の8人の士官のうち、5人が戦死、1人が負傷し、ルイス自身は捕虜となった[10]。グラントもまた捕虜となった[3]。それでも、グラント軍は、殆どの兵が逃亡し、フォーブズとブーケの本隊に合流した。フランスと先住民の連合軍の被害は、8人戦死、8人負傷のみだった。[1]
その後ブーケがここに夜襲をかけようとしたが、これも同じような結果となった[11]。
1901年に、この戦いが行われた地に設立されたアレゲーニー郡裁判所には、戦闘の記念碑がある。この場所は、今はピッツバーグ市グラント・ストリートとなっている。[1]
フランスの退却
[編集]フランスは、最初のイギリスの攻撃こそ撃退したが、リグネリは、600人程度の軍では、その10倍もの人数のイギリス軍相手にはデュケーヌ砦を守れないことを知った。フランス軍は11月24日まではデュケーヌに留まったが、リグネリ軍はその夜砦に火をつけ、暗闇にまぎれて去り[3]、部隊をボートに乗せ、火にまぎれてオハイオ川にまで退いた[11]。その夜、進軍中のフォーブズ率いるイギリス軍は、先住民の斥候から、砦の近くから煙が上がっていると言う情報を得た。フォーブズは調査のため騎兵隊を派遣し、残る士官や兵もそれに続いた。[12] 翌25日、イギリス軍が、火がくすぶり続けている砦の跡地に進軍してきた時、彼らはぞっとするものを見せつけられることになった。先住民たちが高地連隊兵の遺体から首を切り取り、その首を、砦の天辺の尖った支柱に突き刺していたのだ。兵たちのキルトがその下に吊るしてあった。
イギリス軍は、デュケーヌ砦を再建し、その名前を、この、戦略上有効な地の攻略を命じたウィリアム・ピットにちなんでピット砦とした。 のちにダンモア砦と改名されたが、独立戦争の初期に元の名称に戻され、その後、この砦の周辺の町はピッツバーグと呼ばれるようになった。[3]
また、元々のデュケーヌという名は、ヌーベルフランスの総督にちなむものである。[3]
脚注
[編集]- ^ a b c Steele, p. 214
- ^ a b Stewart, Volume II, p. 17
- ^ a b c d e Fort Dusquene
- ^ a b c Valley.com--Fall of Fort Duquesne
- ^ Fleming, p. 391
- ^ Fleming, pp. 391-392
- ^ Fleming, p. 392
- ^ Stewart, Volume I, pp. 312-313
- ^ Stewart, Volume I, Page 313
- ^ Dolack,Founder’s Son Leads Area Through Wars with French and British
- ^ a b This week in history
- ^ Forbes Road - Murrysville, PA - Wagon Roads and Trails on Waymarking.com
参考文献
[編集]- Anderson, Fred. Crucible of War: The Seven Years War and the Fate of Empire in British North America, 1754-1766 (2000) pp 267-285
- Dolack, Bill (2008), Founder’s Son Leads Area Through Wars with French and British, Christian History Society of America 2010年2月3日閲覧。
- Fleming, George Thornton (1922), History of Pittsburgh and Environs: From Prehistoric Days to the Beginning of the American Revolution, Volume 1, New York and Chicago: The American Historical Society, OCLC 18045743 This includes letters from both Grant and Washington discussing the action.
- McConnell, Michael N. A Country Between: The Upper Ohio Valley and Its Peoples, 1724-1774 (1992).
- Steele, Ian K. (1994), Warpaths: Invasions of North America, New York and Oxford: Oxford University Press, ISBN 0-19-508222-2
- Stewart, David, Sketches of the Character, Manners and Present State of the Highlanders of Scotland, 2 volumes, John Donald Publishers Ltd., Edinburgh, 1977 (originally published in 1822)
- White, Richard. Middle Ground: Indians, Empires, and Republics in the Great Lakes Region, 1650-1815 (1991)
一次出典
[編集]- The Papers of Henry Bouquet : Volume II The Forbes Expedition ed. by Donald Kent et al. (1951)
- Writings of General John Cabot Forbes Relating to his Service in North America (1938)
- The Papers of George Washington, Colonial Series, volume 5 October 1757-September 1758 ed by W. W. Abbott et al. (1988)