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テオドール・コチュヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テオドール・コチュヒ

テオドール・コチュヒ(Karl Georg Theodor Kotschy、1812年4月15日 - 1866年6月11日)はオーストリアの植物学者、植物収集家である。中東などで膨大な植物を収集した。

略歴

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現在のポーランドシロンスク県のウストロンで生まれた。父親はチェシン出身の神学者、教育者で果実に関する著作もある人物のカール・フリードリヒ・コチュヒ(Carl Friedrich Kotschy)である。12歳で登山を行い、ワルシャワの教授たちとベスキディ山地のBabia Góraを旅し、博物標本を収集した。神学校に進むが、厳しい校風に合わず退校し、自宅で教育を受けた。1832年に高校卒業資格に合格し、ベルリンに旅した。ベルリンで探検家のアレクサンダー・フォン・フンボルトの著作に影響を受けた。

牧師となるために、ウィーンで神学を学ぶが、神学には興味を失い、アルプスハンガリーなどで自然観察をした。1836年から1838年に行われたオーストリアの地質学者、ルーゼッガー(Joseph Russegger)のナイル上流域の鉱物資源を探すエジプト探検に参加した。博物標本を集め、アラビア語を学んだ。1838年の末、大半の探検隊員が帰国した後もアレキサンドリアに残り、博物標本を売ったり、現地の裕福な起業家から資金を集め、再び、ナイル流域を探検し、ナイル源流まで達した。資金不足で困難に陥ることもあったが、農園主で紡績業者の援助を受けて、1840年にキプロスを、1841年にシリアメソポタミアを探検した。1842年にはペルシャを訪れ、1843年にダマーヴァンド山に登頂した。

1843年に集めた標本を売却し借金を返して、ヨーロッパに戻った。自然科学の学位を得て、ウィーン大学植物園での仕事を得て、植物園の費用で、アラビア語やトルコ語ペルシャ語の知識も生かして再び中東各地での植物収集を行った。

マメ科の植物の属名、Kotschyaイネ科の植物の種、Aegilops kotschyiヤモリ科の動物の種、Cyrtopodion kotschyiMediodactylus kotschyi など多くの生物の学名に献名されている。

著作

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  • Abbildungen und Beschreibungen neuer und seltener Thiere und Pflanzen, in Syrien und im westlichen Taurus gesammelt, 1843
  • Analecta botanica (zusammen mit Heinrich Wilhelm Schott und Carl Frederik Nyman), 1854
  • Coniferen des Cilicischen Taurus (zusammen mit Franz Antoine), 1855
  • Die Eichen Europas und des Orients, 1858–1862
  • Plantae Tinneanae (zusammen mit Johann Joseph Peyritsch), 1867
  • Reise in den cilicischen Taurus über Tarsus, 1858

参考文献

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  • Broda Jan, Z Ustronia do źródeł Nilu, w: „Kalendarz Śląski” 1979, R. XVIII, s. 59-62.
  • Golec Józef, Bojda Stefania, Kotschy Teodor (1813-1866), w: Słownik biograficzny Ziemi Cieszyńskiej tom 2, Cieszyn 1995, s. 106-107.