コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ティルチラーパッリ包囲戦 (1741年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ティルチラーパッリ包囲戦
Siege of Tiruchirappalli
1741年1月16日 - 3月26日
場所インドティルチラーパッリ
結果 マラーターの勝利
衝突した勢力
ボーンスレー家 カルナータカ太守
指揮官
ラグージー・ボーンスレー チャンダー・サーヒブ
戦力
40,000 - 50,000人[1] 騎兵5,000人
歩兵10,000人[1]

ティルチラーパッリ包囲戦英語:Siege of Tiruchirappalli)は、1741年1月から同年3月にかけて、ティルチラーパッリにおいてマラーター同盟ボーンスレー家の当主ラグージー・ボーンスレーカルナータカ太守の一族チャンダー・サーヒブとの間に勃発した戦い。

戦闘に至る経緯

[編集]

1740年4月マラーター王国の要請を受けたボーンスレー家当主ラグージー・ボーンスレーカルナータカ地方政権の領土に攻め入り、5月20日に首都アルコット近郊で太守ドースト・アリー・ハーンの軍勢を破り、アルコットを占領した[2]

そののち、太守の息子サフダル・アリー・ハーンと娘婿チャンダー・サーヒブとの間で太守位をめぐる争いが起き、前者がラグージー・ボーンスレーの援助を受け、11月16日に太守となった[2][3]

一方、敗れたチャンダー・サーヒブはアルコットから南のティルチラーパッリへと逃げ、ティルチラーパッリ城に籠城し、ラグージー・ボーンスレーはタンジャーヴール・マラーター王国の支援も得て彼を追った。

包囲戦

[編集]

1741年1月16日、ラグージー・ボーンスレー率いるマラーター軍はティルチラーパッリを包囲し、チャンダー・サーヒブも籠城の構えを崩すことはなかった[1]

チャンダー・サーヒブはフランスポンディシェリーに家族を避難させていたが、自身はマラーター側によるティルチラーパッリの綿密な封鎖により、食糧などの物資不足に苦しむこととなった[1]

そして、3月26日、チャンダー・サーヒブはティルチラーパッリを出て降伏し、マラーター側に捕縛された[1]

その後の経過

[編集]

チャンダー・サーヒブは捕えられたのち、マラーター王国の首都サーターラーへと送還され、ラグージー・ボーンスレーはもまたナーグプルへと帰還した[3]

その後、ティルチラーパッリを統治するため、マラーター本国からムラーリー・ラーオ・ゴールパデーが送られ、この地を治めることとなった。

1742年10月3日、太守となっていたサフダル・アリー・ハーンは暗殺され、その息子サアーダトゥッラー・ハーン2世が即位したが、デカン地方ニザーム王国がこれに介入し、1743年にマラーターの支配していたティルチラーパッリに兵が送られた(ティルチラーパッリ包囲戦[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f Ramaswami, N. S (1984). Political History of the Carnatic Under the Nawabs. ISBN 0836412621. https://books.google.co.jp/books?id=eAEyAmYRNNQC&pg=PA39&dq=dost+ali+khan&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=5%2C000%20horse%20and%2010%2C000%20foot&f=false 2014年7月13日閲覧。. 
  2. ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p38
  3. ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p198

参考文献

[編集]
  • 辛島昇『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。 

関連項目

[編集]