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チョルトキウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チョルトキウ 

Чортків (ウクライナ語) (Chortkiv)
聖スタニスラウス教会
聖スタニスラウス教会
チョルトキウ の旗
チョルトキウ の紋章
紋章
チョルトキウ の位置(ウクライナ内)
チョルトキウ 
チョルトキウ 
チョルトキウの位置
チョルトキウ の位置(テルノーピリ州内)
チョルトキウ 
チョルトキウ 
チョルトキウ  (テルノーピリ州)
座標:北緯49度00分27秒 東経25度47分26秒 / 北緯49.00750度 東経25.79056度 / 49.00750; 25.79056座標: 北緯49度00分27秒 東経25度47分26秒 / 北緯49.00750度 東経25.79056度 / 49.00750; 25.79056
 ウクライナ
テルノーピリ州の旗 テルノーピリ州
ラヨン(地区)[1] チョルトキウ地区英語版ウクライナ語版
フロマーダ チョルトキウ・フロマーダ[1]
チョルトキウ
マクデブルク法 1533年
市制 1939年[2]
政府
 • 市長 ウォロディミル・シュマトコ
面積
 • 合計 30 km2
標高 218 m
人口
(2021年)推計[4]
 • 合計 28,393人
 • 密度 950人/km2
等時帯 UTC+2 (東ヨーロッパ時間 (EET))
 • 夏時間 UTC+3 (東ヨーロッパ夏時間 (EEST))
郵便番号
48500—48509
市外局番 +380 3552
区画コード[注釈 1] UA61060430010047348[1]
ウェブサイト www.chortkivmr.gov.ua

チョルトキウ (ウクライナ語: Чортків, LL-Q8798 (ukr)-Gzhegozh-Чортків.wav 発音[ヘルプ/ファイル]; ポーランド語: Czortków; イディッシュ語: טשאָרטקאָוו‎, Chortkov; ロシア語: Чортков, チョルトコフ[6]) は、ウクライナ西部のテルノーピリ州オーブラスチ)のチョルトキウ地区ウクライナ語版英語版の市である[1]

チョルトキウ地区(ラヨン)の行政の中心地であり、同地区の行政庁舎が置かれている。またウクライナのフロマーダの一つ、チョルトキウ都市型フロマーダウクライナ語版の行政中心地でもある[1][7]。人口は2021年推計で28,393人[4]

チョルトキウは、歴史的地域のハルィチナーポジーリャの北部、セレト川沿いに位置している[2][8]。またルーマニアの国境からは約140キロの地点に位置している[9]

過去にはチョルトキウは多くのハシド派ユダヤ人の拠点であり、特筆すべきシュテットルで、ホロコースト以前はかなりの数のユダヤ人が居住していた。現代のチョルトキウは地域の商業と小規模製造業の中心地となっている[8]。建築記念碑の中には、それぞれ16世紀と17世紀に建設された要塞群や[10]、17世紀から18世紀にかけて建設されたウクライナの木造教会群英語版を有している[11]

歴史

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チョルトキウ城英語版

チョルトキウが最初に歴史史料で言及されたのは1522年で[2]、ポーランド王ジグムント1世が、イエジィ・チャルトコフスキ (Jerzy Czortkowski)へ町の所有権の命令を付与し、町の名をチャルトコフスキ自身の名に因んだチャルトコフ (Czortków) への命名を許可した時だった[11]。1648年から1649年のコサック・ポーランド戦争では 約50家族を数えるこの小さなコミュニティは、ほぼ全員が虐殺された。ユダヤ人指導者たちは1705年まで、ユダヤ人のチョルトキウへの再定住を反対した[12]。同時期に町はマクデブルク法による自治権も認められた[8]

1931年、町には19,000人の居住者がおり、その内46.4パーセントはローマ・カトリック信者のポーランド人、30パーセントはユダヤ系のウクライナ人とポーランド人、22.8パーセントはウクライナ東方カトリック信者のウクライナ人であった。

チョルトキウはポーランドの国境防衛隊英語版"Podole"旅団の重要な駐屯地で、1935年から1938年の総司令官はステファン・ロヴェツキ英語版将軍であった。さらにはポーランドの第36歩兵師団の駐屯地でもあった。

ソビエト連邦による西ウクライナの併合英語版によって、市は1939年9月17日から1941年6月までソ連に併合された。1940年1月、ポーランド人居住者たち、特に地元の高校の生徒たちは、失敗に終わるチャルトコフの蜂起英語版[注釈 2]を組織し[13]、 それは第二次世界大戦におけるポーランド人の最初の反乱となった。1941年から1944年は、ナチス・ドイツが設立したポーランド総督府に併合された。1944年、赤軍によってナチスが敗北すると、1991年に独立したウクライナの一部となるまでは町はソ連の統治下に置かれた。ユダヤ人住民は、ホロコーストの一環として迫害されるか国外追放された。生き残った町のポーランド人住民は、大戦直後に回復領へ移送させられた。

1944年、州都テルノーピリの激しい破壊のためチョルトキウは州の行政中心地の役割を果たした[14]

1989年1月の人口は、26,681人であった[15][2]

2013年1月の人口は、29,640人であった[16]

2020年7月18日まで、チョルトキウは州内重要市英語版に指定されており、チョルトキウ地区(ラヨン)の行政中心地であったにもかかわらず、同ラヨンに属していなかった。同日にウクライナ最高議会によって可決された、テルノーピリ州のラヨン数を3に減らした地方自治体行政区画改革の一環として州内重要市英語版制度は廃止され、市はチョルトキウ地区に編入された[17][18][19]

ロシアのウクライナ侵攻

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2022年2月24日から始まったロシアのウクライナ侵攻において、前線となったウクライナ中北部、東部、南東部の前線からは距離的には離れていたものの、6月12日には黒海から発射されたミサイル4発による攻撃を受け、軍事施設やアパートが破壊され、22人が負傷したと報じられた[6][9]

天候

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チョルトキウ (1981–2010)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F −0.7
(30.7)
0.9
(33.6)
6.0
(42.8)
13.9
(57)
20.1
(68.2)
22.6
(72.7)
24.7
(76.5)
24.2
(75.6)
18.9
(66)
12.9
(55.2)
5.3
(41.5)
0.2
(32.4)
12.4
(54.3)
日平均気温 °C°F −3.5
(25.7)
−2.5
(27.5)
1.8
(35.2)
8.5
(47.3)
14.3
(57.7)
17.1
(62.8)
19.0
(66.2)
18.3
(64.9)
13.5
(56.3)
8.2
(46.8)
2.2
(36)
−2.4
(27.7)
7.9
(46.2)
平均最低気温 °C°F −6.1
(21)
−5.3
(22.5)
−1.6
(29.1)
4.0
(39.2)
9.2
(48.6)
12.3
(54.1)
14.1
(57.4)
13.4
(56.1)
9.1
(48.4)
4.5
(40.1)
−0.3
(31.5)
−4.8
(23.4)
4.0
(39.2)
降水量 mm (inch) 31.3
(1.232)
39.1
(1.539)
35.7
(1.406)
47.8
(1.882)
80.7
(3.177)
90.3
(3.555)
92.0
(3.622)
72.8
(2.866)
59.9
(2.358)
37.4
(1.472)
37.8
(1.488)
39.0
(1.535)
663.8
(26.134)
平均降水日数 (≥1.0 mm) 7.8 8.4 8.6 8.4 10.0 10.1 10.2 8.6 8.3 6.9 8.0 9.4 104.7
湿度 84.1 81.6 76.5 68.2 67.7 72.5 73.0 73.9 77.4 80.2 85.2 86.4 77.2
出典:World Meteorological Organization[20]

ギャラリー

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関連項目

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脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ 地理情報の符号化によってウクライナの地方自治体の行政区画ごとに付けられた識別符号[5]
  2. ^ 蜂起の呼称はチョルトキウのポーランド語名のCzortkówによる。

出典

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  1. ^ a b c d e Чортків - Тернопільська область” (ウクライナ語). decentralization.gov.ua. 2022年6月14日閲覧。
  2. ^ a b c d Чортков // Большой энциклопедический словарь (в 2-х тт.). / редколл., гл. ред. А. М. Прохоров. том 2. М., "Советская энциклопедия", 1991.
  3. ^ Chortkiv (Ternopil Oblast, Chortkiv Raion)” (ウクライナ語). weather.in.ua. 2 February 2012閲覧。
  4. ^ a b Чисельність наявного населення України на 1 січня” (PDF) (ウクライナ語、英語). Державна служба статистики України. p. 40 (2021年). 2022年6月14日閲覧。
  5. ^ Кодифікатор адміністративно-територіальних одиниць та територій територіальних громад” (ウクライナ語). ukrstat.gov.ua. 2022年7月6日閲覧。
  6. ^ a b ロシア記念日、南部で国籍付与 西部ではミサイル攻撃―ウクライナ:時事ドットコム”. 時事ドットコム (2022年6月12日). 2022年6月14日閲覧。
  7. ^ Чертковская городская громада”(ロシア語). Портал об'єднаних громад України.
  8. ^ a b c Chortkiv”. Encyclopedia of Ukraine. 3 February 2012閲覧。
  9. ^ a b ロシア、ウクライナ西部を空爆 東部要衝では橋破壊”. www.afpbb.com (2022年6月13日). 2022年6月14日閲覧。
  10. ^ CHORTKIV CASTLE, 1610”. Halychyna! - Homeland Page. Central European University Personal Pages. 3 February 2012閲覧。
  11. ^ a b Foundations of history” (ウクライナ語). chortkiv.com.ua. Unicom ISP. 3 February 2012閲覧。
  12. ^ Jewish History of Chortkiv”. Beit Hatfutsot Open Databases Project, The Museum of the Jewish People at Beit Hatfutsot
  13. ^ Gross, Jan Tomasz (2002). Revolution from Abroad: The Soviet Conquest of Poland's Western Ukraine and Western Belorussia. Princeton University Press. pp. 172. ISBN 0-691-09603-1 
  14. ^ Snitovsky, O. Five centuries of Ternopil. The city of Hetman Jan and mason Leontiy[リンク切れ]. Ukrinform. 28 August 2015
  15. ^ Всесоюзная перепись населения 1989 г. Численность городского населения союзных республик, их территориальных единиц, городских поселений и городских районов по полу
  16. ^ Чисельність наявного населення України на 1 січня 2013 року. Державна служба статистики України. Київ, 2013. стор.96
  17. ^ “Про утворення та ліквідацію районів. Постанова Верховної Ради України № 807-ІХ.” (ウクライナ語). (2020年7月18日). http://www.golos.com.ua/article/333466 2020年10月3日閲覧。 
  18. ^ Нові райони: карти + склад” (ウクライナ語). Міністерство розвитку громад та територій України.
  19. ^ Автор. “чи залишаються міста обласного значення чи будуть також реорганізовані (ліквідовані) та створені нові райони” (ウクライナ語). decentralization.gov.ua. 2022年6月20日閲覧。
  20. ^ World Meteorological Organization Climate Normals for 1981–2010”. World Meteorological Organization. 17 July 2021時点のオリジナルよりアーカイブ。17 July 2021閲覧。

外部リンク 

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