チャールース
チャールース چالوس | |||
---|---|---|---|
| |||
位置 | |||
座標 : 北緯36度39分18秒 東経51度25分13秒 / 北緯36.65500度 東経51.42028度 | |||
行政 | |||
国 | イラン | ||
州 | マーザンダラーン州 | ||
郡 | チャールース郡 | ||
市 | チャールース | ||
その他 | |||
等時帯 | イラン標準時 (UTC+3:30) | ||
夏時間 | イラン夏時間 (UTC+4:30) |
チャールース(چالوس)は、イランのマーザンダラーン州にある歴史の古い街の一つ。カスピ海に面した平野の中ほどに位置している。チャールースでは、タバリー・キャラーロスターク地方(طبری کلارستاقی)においてはよく知られているマーザンダラーン語が話されている[1]。
歴史
[編集]チャールースという街の名前は、元来、サールース(سالوس)又はシャールース(شالوس)と呼ばれており、かつて存在したカバイラとコチャ(کبیره و کچه)という2つの小さな街の周りに発展して成立した。アッバース朝期は、カリフ・ムウタスィムの命でムハンマド・ブン・ウワイス(محمد بن اویس)というアラブ人がアミールとしてチャールースを統治した。ムハンマド・ブン・ウワイス自身はタバリスターンの一部、ルーヤーン(رویان)という場所に住み、チャールースの実質的な統治は息子のアフマドに任せた。その後、ターヒル朝に対するシーア派の反乱が起こり、シャールース(=チャールース)をその中に含むディールマーンからジュルジャーンまでの地帯は、シーア派政権が支配するようになった。シャールースの民はシーア派に資金を提供した[2]。
その後、チャールースの街はティムール朝軍の侵攻を受けて破壊され、街の規模は、何世紀もの間、小さな村程度になった。1920年代から1930年代ごろ、政府の支援を受けて、観光資源豊富な現在のチャールースの街が形成された。
チャールースに住む人々の文化と祭り
[編集]ホルミヤー祭
[編集]マーザンダラーン人の中でも特に、チャールース人の中には、ホルミヤーすなわち太陽神(ホルシード)への信仰が生きている。長雨が続くとホルミヤーに捧げる祭りを行うことがある。ホルミヤー祭を行う人々は「ホルミヤーの子孫」を意味する「ホルミヤー・タヴァール」と呼ばれる。[3]
出典
[編集]- ^ http://www.chalouscity.ir/HomePage.aspx?TabID=4640&site=DouranPortal&lang=fa-IR
- ^ عبدالحسین زرینکوب، روزگاران، انتشارات سخن، صص. ۳۸۲--۳۸۴.
- ^ http://www.chalouscity.ir/HomePage.aspx?TabID=4640&site=DouranPortal&lang=fa-IR#_ftn2