チャンドラセーン
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チャンドラセーン Chandrasen | |
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マールワール王 | |
在位 | 1562年 - 1581年 |
戴冠式 | 1562年12月31日 |
別号 | ラーオ |
出生 |
1541年7月30日 ジョードプル |
死去 |
1581年1月11日 バドラジューン |
王朝 | ラートール朝 |
父親 | マールデーヴ |
宗教 | ヒンドゥー教 |
チャンドラセーン(Chandrasen, 1541年7月30日 - 1581年1月11日)は、北インドのラージャスターン地方、マールワール王国の君主(在位:1562年 - 1581年)。チャンドラ・セーン(Chandra Sen)とも呼ばれる。
生涯
[編集]1541年7月30日、マールワール王国の君主マールデーヴの息子として、ジョードプルで誕生した[1]。チャンドラセーンはマールデーヴの寵愛した妃の子供でもあった[2]。
1562年11月7日、父マールデーヴが死亡したことにより、兄たちを差し置いて王位を継承した[1]。だが、兄たちと王位継承争いが発生し、これにムガル朝が介入したため、その結果チャンドラセーンは兄らにジャーギールとして国土の一部を渡さなければならなかった[3]。
だが、チャンドラセーンはこの処分に不満であり、それからしばらくの地に反乱を起こした。そして、ムガル帝国の軍勢が王国に侵入し、1565年に首都ジョードプルのメヘラーンガル城を占拠し、帝国の直轄領とされた[1]。アクバルとしては、 ジョードプルを通過しグジャラートに至るまでの供給路を防衛したい、
その後、チャンドラセーンはゲリラ戦でムガル帝国の軍勢に対抗したが、結局はメーワール王国へと亡命した[4]。だが、メーワール王国はムガル帝国との争いのさなかにあり、そこでも帝国軍によって追われた[4]。
1581年1月11日、チャンドラセーンはバドラジューンで死亡し、マンドールで火葬された[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。