コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

チャルーン・ラッタナクル・セリルーングリット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チャルーン・ラッタナクル・セリルーングリット
จรูญ รัตนกุล เสรีเริงฤทธิ์
生年月日 1895年10月27日
出生地 シャム プラナコーン県タイ語版
没年月日 (1983-07-19) 1983年7月19日(87歳没)
死没地 タイ王国の旗 タイ バンコク
出身校 王立陸軍士官学校
所属政党 人民党
配偶者 クンイン・イビラナクン・ラッタナクル・セリルーングリット[1]
プラパイ・ラッタナクル・セリルーングリット

タイ王国の旗 商務大臣
内閣 第2次ピブーン内閣
在任期間 1942年3月7日 - 1942年9月8日
国王 ラーマ8世

タイ王国の旗 運輸大臣
内閣 第2次ピブーン内閣
在任期間 1942年3月7日 - 1942年5月5日
国王 ラーマ8世
テンプレートを表示

チャルーン・ラッタナクル・セリルーングリットタイ語: จรูญ รัตนกุล เสรีเริงฤทธิ์タイ語発音: [t͡ɕàruːn ráttànákun sěːriːrɤːŋrít]タイ語ラテン翻字: Charun Rattanakun Seriroengrit1895年(仏暦2438年)10月27日 - 1983年(仏暦2526年)7月19日)は、タイの軍人、政治家である。プレーク・ピブーンソンクラーム政権下で商務大臣、運輸大臣などを務めた。

経歴

[編集]

プラナコーン県タイ語版(現バンコクプラナコーン区出身。父はチット・ラッタナクン大尉、母はチュエン・ラッタナクン。大尉であった絶対君主制の時代、官位ルワン」および欽錫名「セリルーングリット」を得る。1932年の立憲革命後、人民党に加入。同年、第1信号大隊大隊長(~33年)[2]

その後、大佐になり、1936年2月1日タイ国有鉄道長官となる[3]。日中戦争開戦後、タイ米の輸出を担っていた華僑が日本への輸出を拒んだため、1938年12月5日、パオ・ピアンラート・ボリパンユッタキットタイ語版経済相の指示でシャムライスカンパニーが創設されると、同役員に就任[4]。1939年9月6日、経済副大臣(~1941年9月26日)として第1次ピブーン内閣に本格的に参加、第9回タイ内閣閣議タイ語版に参加。

1940年9月、ピプーン内閣の対ラオス工作のため、自身の腹心でルアンパバーン王朝の血を引くサワイ・サワイサニャコーンタイ語版少佐をノーンカーイ県副知事に登用させる[5]

少将であった1940年12月、ブラファ軍(東部軍、司令官:マンコーン・プロムヨーティータイ語版中将)副司令官に任命され対仏国境紛争を指揮[2][6]。停戦後の1941年9月26日国防副大臣タイ語版に任ぜられる(プロムヨーティー中将との2人体制)。12月5日、日本軍が接近するとピブーン首相、陸軍司令官のチラ・ウィチットソンクラームタイ語版中将、クアン・アパイウォン(不参加とも)とシソポンの部隊のちバタンバン県英語版の視察に赴く[7]

1942年2月、中将に昇進し[8]、3月7日、第2次ピブーン内閣運輸大臣タイ語版経済大臣タイ語版(同年商務大臣と改称)に就任、第10回タイ内閣閣議タイ語版に参加[9]。しかしわずか2か月後の5月5日、クアン・アパイウォンに運輸大臣の座を譲り(商務大臣は9月8日まで継続)、同年5月10日に編成されたパヤップ軍英語版(西北軍の意、日本軍はタイ国外征軍と呼称)司令官に着任。ビルマの戦いではイギリス領ビルマシャン州に進攻し、5月26日にケントゥンを占領、雲南省国境まで迫るも雨期のため断念した[10]。占領したシャン州は統一源タイ領英語版を称した。9月に商務大臣から再び運輸大臣に転任し[11]、1944年8月のピブーン内閣総辞職まで務めた。

セーニー・プラーモート政権下の1944年10月10日に成立した戦争犯罪人法適用によりピブーンとともに逮捕されたが[12]プリーディー・パノムヨン政権下で1946年4月に戦争犯罪人法を無効とする最高裁判決が下され釈放される。国家貿易会社のタイ・ニヨム・ファニットの取締役員になるとともに1946年5月に元老院議員になり、1947年11月8日タイ・クーデター英語版にも関与、ピブーンの政界復帰に貢献した[13]。議員は静かなるクーデター英語版と仏暦2475年サヤーム王国憲法復活で元老院が一時解体される1951年まで所属した[14]。また、1949年(仏暦2492年)11月11日から国有鉄道長官を2期務めた(~1951年6月30日、1959年9月11日)。1951年、陸軍大将[15]

1983年7月19日死去。バーンケーン区プラスリマハタート寺院タイ語版にて火葬式が行われた[16]

親族

[編集]

ラッタナクル家はトンブリー王朝の代に王タークシンと同じく潮州より移住した華人で港湾監督官となった黄貴をルーツとする。その次男黄軍はラーマ2世の大臣として立てられ、タイ語姓ラッタナクルを称する[17][18]

最初の妻クンイン・イビラナクンは早くに先立たれ、プラパイと再婚。 子のアラーム・ラッタナクン・セーリールーンリットタイ語版も軍人となり、1944年ナラーティワートラーチャナカリンと結婚(1950年離婚)、その娘にタットサナーワライ・ソーンソンクラーム英語版[19]

栄典

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ ราชกิจจานุเบกษา, แจ้งความสำนักนายกรัฐมนตรี เรื่อง พระราชทานเครื่องราชอิสริยาภรณ์, เล่ม ๕๘, ตอน ๐ ง, ๑๘ กันยายน พ.ศ. ๒๔๘๔, หน้า ๒๙๔๒
  2. ^ a b Seriroengrit, Jarun Rattanakuln” (英語). generals.dk. 2019年8月25日閲覧。
  3. ^ ทำเนียบผู้บริหาร” (タイ語). タイ国有鉄道. 2019年8月25日閲覧。
  4. ^ 村嶋英治第Ⅲ部 タイ華僑の政治活動」『東南アジア華僑と中国 : 中国帰属意識から華人意識へ』第436巻、アジア経済研究所、1993年、263-364(p.350)、ISBN 97842580443682020年4月15日閲覧 
  5. ^ 村嶋英治1940年代におけるタイの植民地体制脱却化とインドシナの独立運動:タイ仏印紛争から冷戦の開始まで」『ベトナムとタイ-経済発展と地域協力-』、大明堂、1998年12月、124頁、ISBN 44705005932020年4月15日閲覧 
  6. ^ Charles D. Pettibone (2006). The Organization and Order of Battle of Militaries in World War II., Germany. Trafford. p. 342. ISBN 978-1412074988. https://books.google.co.jp/books?hl=ja&lr=lang_ja 
  7. ^ 吉川利治「タイ国ピブーン政権と太平洋戦争」『東南アジア研究』第19巻第4号、京都大学東南アジア研究センター、1982年、363-387(373}、2020年4月15日閲覧 
  8. ^ http://www.ratchakitcha.soc.go.th/DATA/PDF/2485/D/041/1624.PDF
  9. ^ ลำดับความเป็นมาของคณะรัฐมนตรีไทย” (タイ語). タイ内閣府. 2019年8月25日閲覧。
  10. ^ 大本営陸軍部. “最近ニ於ケル泰国事情” (PDF). 返赤64012000(所蔵館:国立公文書館). 2019年8月25日閲覧。
  11. ^ 財団法人暹羅協会 (1942), 財団法人暹羅協会々報 第31号, 財団法人暹羅協会, http://nihon-thaikyokai.go-web.jp/Portals/0/31_%E8%B2%A1%E5%9B%A3%E6%B3%95%E4%BA%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%8D%94%E6%9C%83%E3%80%85%E5%A0%B1_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%80%E8%99%9F.pdf 2019年8月27日閲覧。 
  12. ^ Walter Skrobanek: Buddhistische Politik in Thailand. Steiner, Wiesbaden 1976, S. 188.
  13. ^ Sorasak Ngamcachonkulkid: The Seri Thai Movement. The First Alliance Against Military Authoritarianism in Modern Thai History. Dissertation, University of Wisconsin, Madison 2005, S. 179.
  14. ^ Judith A. Stowe: Siam becomes Thailand. A Story of Intrigue. C. Hurst & Co., London 1991, S. 375.
  15. ^ Ratchakitcha
  16. ^ อนุสรณ์งานพระราชทานเพลิงศพ พลเอก จรูญ รัตนกุล เสรีเริงฤทธิ์ 21 ธันวาคม 2526 ณ วัดพระศรีมหาธาตุวรมหาวิหาร บางเขน กทม.” (PDF). タマサート大学デジタルコレクション. 2019年8月25日閲覧。
  17. ^ ส.พลายน้อย. พระบรมราชินีและเจ้าจอมมารดาแห่งราชสำนักสยาม. พิมพ์ครั้งที่ 5. กรุงเทพฯ:ฐานบุ๊คส์, 2554. หน้า 242
  18. ^ คนจีนในแผ่นดินสยาม
  19. ^ Sorasak Ngamcachonkulkid: The Seri Thai Movement. 2005, S. 204.

関連項目

[編集]
軍職
先代
なし
パヤップ軍司令官
初代:1942.5 - 1942.9?
次代
チラ・ウィチットソンクラームタイ語版
公職
先代
プラウドム・ヨータティクン
ナイ・プン・サクンタナーン
国有鉄道長官
第2代:1936.2.1 - 1942.3.10
第7、8代:1949.11.11 - 1959.9.10
次代
クアン・アパイウォン
サワイ・サワイサニャコーンタイ語版