チャウス
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チャウス(モンゴル語: Ča'us、? - 1248年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、ナイマン部の出身。漢字表記は『元史』では抄思(chāosī)と表記される。
概要
[編集]チャウスの曾祖父はモンゴル部のチンギス・カンとモンゴル高原の覇権を争ったタヤン・カンで、ナイマン部の王族の家系であった。1204年の戦いでナイマン部が崩壊すると、タヤン・カンの子のクチュルクとその子のチャウン(敞温)は西方の西遼に亡命し、そこでクチュルクは西遼の王権を乗っ取り、ナイマン部の復興を果たした。しかし、まだ幼いチャウンの息子とその母親は何らかの理由でクチュルクらから離れたようで、モンゴル帝国に投降した。
チャウスは25歳になると金朝との戦いに従軍するようになり、代州・石州の戦いでは敵軍の矢石を避けずに突撃する勇猛さを見せ、多くの武功を挙げた。第二次対金戦争最大の激戦となった三峰山の戦いでは、敵軍の塁壁を夜襲にて破り、モンゴル軍の勝利に大きく貢献した。このようなチャウスの勲功を称えてトルイは湯陰県黄招撫等117戸を授けようとしたがチャウスは固持し、代わりに男女50口、宅1区、黄金鞶帯・酒壺・杯盂が1つずつ与えられ、また随州に鎮守することになった。
1237年には華北各地から4千6百人余りの兵を徴発して潁州に駐屯したが、病のため大名路に移った。その後、1248年に44歳で亡くなった。チャウスの死後、チャウスと張氏との間に産まれたベテキンが後を継ぎ、クビライに仕えて大元ウルス各地のダルガチを歴任した[1]。
ナイマン王家
[編集]- イナンチュ・ビルゲ・ブク・カン(Inančü Bilge Bügü Qan >亦難察罕/yìnánchá hǎn,اینانچ بلگه بوکو خان/īnānch bilge būkū khān)
- ナルクシュ・タヤン・カン(Naruqš Tayan Qan >نارقیش تايانك/nārqīsh tāyānk)
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻121列伝8抄思伝,「抄思、乃蛮部人。又号曰答禄。其先泰陽、為乃蛮部主。祖曲書律。父敞温。太祖挙兵討不庭、曲書律失其部落、敞温奔契丹卒。抄思尚幼、与其母跋渉間行、帰太祖、奉中宮旨侍宮掖。抄思年二十五、即従征伐、破代・石二州、不避矢石、毎先登焉。雁門之戦、屡捷。会太宗命睿宗平金、抄思執鋭以従、与金兵戦、所向無前。壬辰、兵次鈞州、金兵塁於三峰山、抄思察其営壁不堅、夜領精騎襲之、金兵驚擾、遂乗撃之、抜三峰山。睿宗以抄思功聞於朝、有旨以湯陰県黄招撫等一百一十七戸賜之。抄思力辞不受。復賜以男女五十口、宅一区、黄金鞶帯・酒壺・杯盂各一。辞弗許、乃受之。制授万戸、与内侍胡都虎・留乞簽起西京等処軍人征行及鎮守随州。招集民戸、毎千人以官一員領之。丁酉秋七月、奉旨調軍、得西京・大名・浜・棣・懐・孟・真定・河間・邢・洺・磁・威・新・衛・保等府州軍四千六十餘人、統之。後移鎮潁、以疾帰大名。歳戊申正月卒、年四十四。子別的因」
参考文献
[編集]- 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
- 『元史』巻121列伝8抄思伝