トラヴァンコール王国
- トラヴァンコール王国
- തിരുവിതാംകൂര്
Kingdom of Travancore -
1729年 - 1947年 → (国旗) (国章) - 国歌: Vanchi Bhumi
トラヴァンコール王国の領土-
公用語 マラヤーラム語
タミル語宗教 ヒンドゥー教 首都 パドマナーバプラム(1729 - 1795)
トリヴァンドラム(1795 - 1947)通貨 トラヴァンコール・ルピー 現在 インド
トラヴァンコール王国(トラヴァンコールおうこく、英語:Kingdom of Travancore)は、18世紀初頭から20世紀半ばにかけて、南インドのケーララ地方南部に存在したヒンドゥー王朝(1729年 - 1947年)。首都はパドマナーバプラム、トリヴァンドラム(現ティルヴァナンタプラム)。
歴史
[編集]建国
[編集]トラヴァンコール王国の成立は18世紀初頭であるが、その王家であるヴェーナード家は、12世紀初期頃からケーララ地方南部のクイロンを中心に存在した[注 1]。
王家の起源は不明な点が多いが、一説によると、チェーラ朝最後の王ラーマ・ヴァルマ・クラシェーカラが、ヴェーナード家の創始者とする説がある。
1102年にチェーラ朝がチョーラ朝に滅ぼされた後、北部はコーチン王国が成立したが、この地域は統一がない時期が何世紀も続き、パーンディヤ朝やホイサラ朝、ヴィジャヤナガル王国などの圧迫を受けた。
18世紀初頭、ヴェーナード家のマールターンダ・ヴァルマが、ケーララ地方南部に割拠した付近の領主を統一して、1729年にトラヴァンコール王国を建国した。
マールターンダ・ヴァルマの治世とオランダとの争い
[編集]マールターンダ・ヴァルマ(在位1729 - 1758)は即位と同時に、首都パドマナーバプラム近くのトリヴァンドラム(現ティルヴァナンタプラム)にある、ヴェーナード家の守護神ヴィシュヌを祭るパドマナーバ・スワーミー寺院の大改修を行い、1556年以降着工されていなかった門に、ヴィジャヤナガル・ナーヤカ様式を取り入れて5重の段階にした(次王の時代にはさらに2段加えられた)。
マールターンダ・ヴァルマは、行政の中央集権化を図り王権を強化し、オランダ勢力が当時この地域に進出してきたが、1741年8月10日にコラチュルの戦いでこれを破った(とはいえ、オランダとの争いは、1753年8月15日に和平条約が締結されるまで続いた)。
また、1750年、マールターンダ・ヴァルマは、ティルパディダーナムの儀式を行い、全ての領土を守護神に捧げ、自らは神の下僕として国を治めることとした。
タルマ・ラージャの治世と藩王国化
[編集]1758年7月7日、マールターンダ・ヴァルマは死に、息子の ダルマ・ラージャ[1](在位1758 - 1798)が後を継いだ。
ダルマ・ラージャの治世は長く、内政面では、宰相ケーシャヴァ・ピッラの活躍により、アーラップラ(アレッピーとも)のジャングルが海外交易港へと開発され、マラヤーラム語の復興も行われ、文学、舞踊、演劇、絵画、建築も栄え、パドマナーバプラムの宮廷を彩った。
また、コーチン王国ともよく争い、1756年から1757年にかけては大規模な戦闘も起き(コーチン・トラヴァンコール戦争)、この争いは1761年12月23日に和平条約が締結されるまで続いた。
しかし、1767年以降、マイソール王国のハイダル・アリーのケーララ侵略があり、トラヴァンコール王国はマイソール王国の侵略を受けることなり、1774年にはトラヴァンコール王国は家臣として貢ぐことを迫られたが、カルナータカ地方政権の家臣であることを理由に拒否した。
その息子ティプー・スルタン もケーララ地方を侵略し、1789年12月の侵攻の際、ダルマ・ラージャはイギリスに援助を求め、翌1790年初頭から第3次マイソール戦争が勃発した。
その結果、トラヴァンコール王国は、マイソール戦争でイギリスに味方し、第3次マイソール戦争終結後、1795年には軍事保護条約を結ばされ、イギリスに従属する藩王国の地位に落とされた。
なお、同年にダルマ・ラージャは、首都をパドマナーバプラムからトリヴァンドラムへと遷都し、1798年2月17日に死亡した。
イギリス統治下とインド併合
[編集]イギリスの保護下において、トラヴァンコール王国は藩王国として存続を許された。だが、藩王バララーマ・ヴァルマ1世(在位1798 - 1810)の治世には、1805年にふたたび軍事保護条約が結ばれ、イギリス東インド会社の軍の駐留費の支払も増額させられた。
1807年12月にイギリスは、トラヴァンコールに滞納分の駐留費を支払うように求めたものの、トラヴァンコール側が拒否したため、これに連動して反乱が起きた。だが、1808年1月に反乱軍が敗れ、藩王国も鎮圧に協力させられ、反乱は沈静化していった(トラヴァンコール戦争)。
トラヴァンコール藩王国の国内では、平均識字率や社会発展の面において、イギリス領インドより進んでおり、かなり近代的かつ能率の高い行政を行っていたことで知られ、すでに1834年には、インド最初の英語学校がおかれ、この学校は1964年までは学費の負担がなかった。
だが、1924年から1925年、女藩王セートゥ・ラクシュミー・バイイ(在位1924 - 1931)のとき、ケーララのインド国民会議派により、ヴァイカムの寺院を囲む公道を不可触民に開放する非暴力運動(ヴァイカム・サティヤーグラハ)が起き、ガンディーの調停で、トラヴァンコール藩王国の政府は、一部を除き寺院につながる道を不可触賤民に開放するなど、身分差別や宗教的には問題があった。
最後の藩王バララーマ・ヴァルマ2世(在位1931 - 1947)は、1947年6月3日にインドとパキスタンが分離独立すると発表されたとき、インドとパキスタンのどちらにも属さず、トラヴァンコール藩王国が独立した国家となることを望んだが、結局インドに帰属を決めた。
同年8月15日、インド・パキスタン分離独立が行われると、トラヴァンコール藩王国はインドに併合されることとなり、のちにコーチン藩王国の領土と合わせて、ケーララ州となった。
歴代君主
[編集]- マールターンダ・ヴァルマ(Marthanda Varma, 在位1729 - 1758)
- ダルマ・ラージャ(Dharma Raja, 在位1758 - 1798)
- バララーマ・ヴァルマ1世(Balarama Varma I, 在位1798 - 1810)
- ガウリー・ラクシュミー・バイイ(Gowri Lakshmi Bayi, 在位1810 - 1815)
- ガウリー・パールヴァティー・バイイ(Gowri Parvati Bayi, 在位1815 - 1829)
- ラーマ・ヴァルマ2世(Rama Varma II, 在位1829 - 1846)
- マールターンダ・ヴァルマ2世(Marthanda Varma II, 在位1846 - 1860)
- ラーマ・ヴァルマ3世(Rama Varma III, 在位1860 - 1880)
- ラーマ・ヴァルマ4世(Rama Varma IV, 在位1880 - 1885)
- ラーマ・ヴァルマ6世(Rama Varma VI, 在位1885 - 1924)
- セートゥ・ラクシュミー・バイイ(Sethu Lakshmi Bayi, 在位1924 - 1931)
- バララーマ・ヴァルマ2世(Balarama Varma II, 在位1931 - 1947)
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マールターンダ・ヴァルマ
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バララーマ・ヴァルマ1世
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ゴウリー・パールヴァティー・バイイ
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ラーマ・ヴァルマ2世
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マールターンダ・ヴァルマ2世
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ラーマ・ヴァルマ3世
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ラーマ・ヴァルマ4世
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ラーマ・ヴァルマ6世
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バララーマ・ヴァルマ2世(左)とV・P・メノン
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ ダルマ・ラージャの本名は、ラーマ・ヴァルマだが、一般的にはこの名で知られる。
参考文献
[編集]- 「新版 世界各国史7 南アジア史」山川出版社 辛島 昇
- 「世界歴史の旅 南インド」山川出版社 辛島昇・坂田貞二
- 「近代インドの歴史」山川出版社 ビパン・チャンドラ
外部リンク
[編集]- Travancore State Manual -T.K.Velu Pillai - ウェイバックマシン(2017年9月3日アーカイブ分)
- Genealogy of the Kulasekhara Dynasty of Travancore - ウェイバックマシン(2006年2月19日アーカイブ分)
- Another genealogy - ウェイバックマシン(2009年12月3日アーカイブ分)
- Venad and Kulasekharas - ウェイバックマシン(2012年6月6日アーカイブ分)
- Travancore Devaswom Board
- Interview with Prince Rama Varma, Hindu April 2005 - ウェイバックマシン(2014年1月4日アーカイブ分)
- A comprehensive website on Maharaja Swathi Thirunal
- Review of Swathi Sangeethotsavam (Music Festival) 2002 - ウェイバックマシン(2006年11月11日アーカイブ分)
- Swathi Sangeethotsavam 2007 - ウェイバックマシン(2013年10月21日アーカイブ分)