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ダン・ショムロン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダン・ショムロン
ヘブライ語: דן שומרון
英語: Dan Shomron
中将時代のショムロン。1989年の9月撮影。
生誕 1937年8月5日
アシュドット・ヤーコブ英語版
イギリス委任統治領パレスチナの旗 イギリス委任統治領パレスチナ
死没 (2008-02-26) 2008年2月26日(70歳没)
ヘルツリーヤイスラエルの旗 イスラエル
所属組織 イスラエル国防軍
軍歴 1955~1991年
第二次中東戦争
第三次中東戦争
消耗戦争
第四次中東戦争
エンテベ空港奇襲作戦
ガリラヤの平和作戦英語版
第一次インティファーダ
最終階級 中将(ラヴ・アルーフ
除隊後 イスラエル・ミリタリー・インダストリーズ(IMI)社長
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ダン・ショムロンヘブライ語: דן שומרון‎、英語: Dan Shomron1937年8月5日 - 2008年2月26日)は、イスラエル軍人。第13代イスラエル国防軍参謀総長(ラマトカル、在任1987年 - 1991年)。エンテベ空港奇襲作戦の作戦指揮を執ったことでも知られる。

経歴

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1967年第三次中東戦争の際、ショムロンはシナイ半島方面で空挺部隊を指揮した。スエズ運河に到達した最初の部隊となり、殊勲章を授与された。また彼は第二次中東戦争にも従軍している。

1973年第四次中東戦争勃発の際、ショムロンは現役部隊のひとつであった第401機甲旅団長としてシナイ方面での戦闘に参加した。緒戦では大きな損害を被ったものの、次第に持ち返しスエズ運河を渡河、イスラエル軍の(軍事的)勝利に貢献している。

1974年、ショムロンは歩兵・空挺科総監に就任した。また同じ時期に第98空挺師団の師団長を兼任した。1976年エンテベ空港奇襲作戦には作戦指揮官として現地に赴いている。[1] ショムロンはこの作戦を成功させ「英雄」として称賛されたが、彼自身はこう語っている。

I also felt some kind of envy from the military and it was not comfortable for me. Around the world, until today, they look at me like something from a different world, a super super-hero, something not natural. I don’t like that feeling of being an advertisement.
私は軍人としてある種の羨みを感じられているが、それは私にとってあまり快いものではなかった。今日まで世界中に、私は彼らに別世界のもの、スーパーヒーローとして見られているが、おかしなことである。そのような宣伝めいた気分は好きではないのだ。 — ダン・ショムロン、英文:英語版より転載。日本語文:編集者による翻訳。

エンテベ空港奇襲作戦で最も記憶に残ったことについて、ショムロンは次のように語っている。

When the hostages board the evacuation plane, are helped up, each one checking his family that everyone is present. That was a strong moment that I can’t forget.
救出機に人質を乗せるのを手伝っていた時、それぞれの人々が家族のことを全員いるか確かめていた。その時が私にとって忘れられない瞬間であった。 — ダン・ショムロン、英文:英語版より転載。日本語文:編集者による翻訳。

ショムロンは1978年のキャンプ・デービッド合意ののち、シナイ半島からのイスラエル軍撤退作業の責任者を担当した。

1983年に陸軍指揮本部(歩兵科、機甲科、砲兵科、工兵科を統合、指揮下に置いた組織)が設立され、ショムロンはその初代指揮官に就任した。

1987年、ショムロンが50歳のときに参謀総長(第13代)に就任し、1991年までこの職にあった。退役後、イスラエル・ミリタリー・インダストリーズの社長に就任している。

脳動脈瘤が原因で2008年2月26日に死去。妻と2人の子供がいる。[2][3]

ショムロンは多くのイスラエル人にこれまでのイスラエル将校の中で最高の将校の一人と考えられている。

関連項目

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脚注

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外部リンク

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先代
モーシェ・レビ
イスラエル国防軍参謀総長
1987年 - 1991年
次代
エフード・バラック