コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダリッジ絵画館から転送)
ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー
地図
施設情報
専門分野 美術
開館 1817年
所在地 ダリッジロンドン
外部リンク (英語) Dulwich Picture Gallery
プロジェクト:GLAM
テンプレートを表示

ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー: Dulwich Picture Gallery)はロンドン南部のダリッジ (en:Dulwich ) にある美術館。日本では「ダリッジ絵画館」、「ダリッジ美術館」、「ダルウィッチ美術館」など様々に呼ばれている。イングランドで最初に一般大衆に開かれた美術館として建築家ジョン・ソーンが設計した建物で、1817年に開館した。ソーンは自然光を取り入れた続き部屋として展示室を配置しており、この設計はその後の美術館建築に大きな影響を与え続けた。ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーはオールド・マスターの作品の所蔵ではイングランド有数の美術館であり、とくにフランス、イタリア、スペインのバロック絵画テューダー朝から19世紀にかけてのイギリスの肖像画のコレクションで知られている。ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーは1995年から非営利慈善機関 (en:Charitable organization) として登録されている[1]

コレクションの歴史

[編集]

ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーのコレクションの基礎となったのは、ロンドンで画商として成功していたスイス系イギリス人画家フランシス・ブルジョワ (en:Francis Bourgeois) と、共同経営者のフランス人ノエル・デザンファンが収集した絵画である。1790年にポーランド・リトアニア共和国国王スタニスワフ2世アウグストからの依頼により収集を開始したコレクションで、ポーランド王室の美術品の充実とポーランドにおける美術の発展を目的としたものだった。ブルジョワとデザンファンは5年をかけてヨーロッパ中を回り絵画を集めたが、1795年に第3次ポーランド分割が行われ、ポーランド・リトアニア共和国自体が消滅してしまい、引き取り手がいなくなってしまった[2]

そのためブルジョワとデザンファンは他国へこのコレクションをまとめて売却しようと試みたがうまくいかず、重要な作品の追加購入資金として数点の絵画を売却するに止めて、コレクション自体はロンドンで保管することとした。1807年にデザンファンが死去し、ブルジョワは大英博物館に対して自身が死去したらこのコレクションを遺贈したいと持ちかけたが、博物館側の役員たちの問題でこの話も流れてしまった。1811年にブルジョワが死去した際にコレクションはダリッジ・カレッジに遺贈され、ブルジョワの遺言の条件に従ってコレクションを収容するダリッジ・ピクチャー・ギャラリーが設立されることとなった。

ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーのコレクションに重要な作品が最初に追加されたのは1835年のことだった。トーマス・リンリーに始まる音楽家、役者の一族リンリー家で、トーマスの最後の孫となったウィリアム・リンリー (en:William Linley) が1835年に死去し、一族の肖像画をダリッジ・ピクチャー・ギャラリーに遺贈したことがそれである。

1966年12月31日には8点の絵画がダリッジ・ピクチャー・ギャラリーから盗まれた。盗難に遭ったのはいずれもバロック期の画家の作品で、オランダ人画家レンブラントの絵画3点、フランドル人画家ルーベンスの絵画3点、オランダ人画家ヘラルト・ドウ、ドイツ人画家アダム・エルスハイマーの絵画それぞれ1点である。これらの絵画の総額は当時の資産価値で450万ポンドといわれたが、報奨金としてかけられたのはわずか1,000ポンドに過ぎなかった。しかしながら、チャールズ・ヒューイット警視が指揮した捜査で数日後にはこれらの絵画は無事に発見されている。複数犯の中で失業中の救急車運転手マイケル・ホール一人だけが逮捕され、禁錮5年の判決を言い渡されて服役した[3]

レンブラントの初期の小さな肖像画『ヤコブ・デ・ヘイデン三世の肖像』は、直近に盗まれた1983年を含めて4回の盗難に遭ってそのたびに取り戻されており、「世界でもっとも盗難に遭った美術品」としてギネス世界記録に登録されている。取り戻された経緯や場所も様々で、西ドイツの手荷物一時預かり所、匿名の密告、自転車の荷台、ストリータム近くの墓地のベンチだった。現在の『ヤコブ・デ・ヘイデン三世の肖像』は、強固なセキュリティシステムによって厳重に守られている。

ギャラリーの歴史

[編集]

1811年にブルジョワが死去し美術コレクションが遺贈されたが、ブルジョワが残した遺言には、自身の友人の建築家ジョン・ソーンの設計による、コレクションを収蔵する新しいギャラリーを建設して大衆にコレクションを公開することという条件がついていた。そしてギャラリーの建築費用として2,000ポンドの遺産も残されていた。

ソーンがダリッジ・ピクチャー・ギャラリーの設計に採用した、天窓を通じた太陽光を光源とした続き部屋の展示室というシンプルかつ基本的なデザインは、以降の美術館の設計に大きな影響を与え続けることになる。当時はダリッジ・カレッジ・ピクチャー・ギャラリー (The Dulwich College Picture Gallery) と呼ばれた美術館は1817年に開館した。ソーンの設計どおりに、展示されている絵画は太陽光によって間接的に照らし出され、油彩画を鑑賞する場所として最適な効果が与えられている。20世紀のアメリカのモダニズム建築家フィリップ・ジョンソンもこのギャラリーを「ソーンは我々に絵画の展示方法を教えてくれた」と評価した。

ブルジョワとデザンファン、そして絵画の一部を寄贈したデザンファンの細君は、ギャラリー西棟中央のマウソレウムに埋葬されている。ギャラリー西側に沿ってソーンが救貧院として設計した建物があるが、この建物は1880年にチャールズ・バリー・ジュニア (en:Charles Barry, Jr.) が展示場所へと改築した。ギャラリー東部分には1908年から1938年にかけて、E.S.ホールの設計で建物が増築されている。

ギャラリー西棟とマウソレウムは第二次世界大戦時の1944年7月12日にドイツ軍のV1飛行爆弾によってひどい損害を受け、埋葬されていた三人の骨はギャラリー正面の芝生に散乱したといわれている。その後ギャラリーはオースチン・バーノンらの手によって修復され、1953年4月27日に王太后エリザベス来臨のもとで再開館がなされた[4]

1999年にはアメリカ人建築家リック・マザー (en:Rick Mather) が担当した、カフェ、教育施設、階段式講堂、新しいエントランス、ガラス張りの通路といった増改築が行われ、礼拝堂とダリッジ・カレッジも所属する慈善団体アレンズ・カレッジ (en:Alleyn's College) のオフィスがギャラリーと結ばれた。ソーンが設計したオリジナルの部分にも修復されている箇所があり、増改築が繰り返されている間に変更されてきた。マザーが担当した増改築部分が完成し、公開されたのは2000年5月25日のことだった[5]

常設展示作品と美術展

[編集]

ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーは17世紀から18世紀を中心としたヨーロッパのオールド・マスターたちの非常に優れた絵画作品を収蔵している[6] 。重要な臨時美術展も主催しており、近年の例としては18世紀の画家でイングランド活動時代のカナレット、20世紀の画家ポール・ナッシュノーマン・ロックウェルサイ・トゥオンブリー、17世紀の画家ニコラ・プッサンらの作品の美術展があげられる。

館長

[編集]

2011年現在ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーの館長を務めているのは2005年に就任したイアン・ドジャルダン (en:Ian Dejardin) である[7]。前任者は1996年から2005年まで館長職にあったデズモンド・ショー・テイラーで、2011年現在英国王室ロイヤル・コレクションの美術監督を務めている。

教育プログラム

[編集]

ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーは先進的な教育プログラムでも有名で、とくに年少者や老人を対象とした美術講座など地域に密着したプログラムを開催している。教育に携わる部局は年々このような教育プログラムを拡張していっている。

主要なコレクション

[編集]
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像』(1632年)
レンブラント・ファン・レイン
オランダ絵画
『リンリー家の姉妹』(1772年頃)
トマス・ゲインズバラ
イングランド絵画
『サムソンとデリラ』(1620年頃)
アンソニー・ヴァン・ダイク
フランドル絵画
リナルドとアルミーダ』(1629年)
ニコラ・プッサン
フランス絵画
『聖アントニウス』(1503年)
ラファエロ・サンティ
イタリア絵画
スペイン絵画

ギャラリー

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ Charity Commission [in 英語]. ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー, registered charity no. 1040942.
  2. ^ Taylor, Brandon (1999), Art for the Nation: Exhibitions and the London Public, 1747–2001, Manchester: Manchester University Press pp.29 - 30
  3. ^ Hugh McLeave, Rogues in the Gallery: The Modern Plague of Art Thefts, C&M Online Media, Inc. ISBN 091799082X
  4. ^ “Russell Vernon”. The Telegraph. (7 September 2009). http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/culture-obituaries/art-obituaries/6151989/Russell-Vernon.html 
  5. ^ Worsley, Giles (23 May 2000). “Overhauled but understated”. The Telegraph. http://www.telegraph.co.uk/culture/4720779/Overhauled-but-understated.html 
  6. ^ Jones, Jonathan (3 August 2009). “Arcadian fire: how British art fell in love with the pastoral: Two new shows, in Nottingham and London, reveal how artists such as Gainsborough, Sir Peter Lely and Paul Sandby depicted a golden Britain even as the country sank into turmoil”. The Observer. http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2009/aug/03/british-art-pastoral 
  7. ^ Ingrid Beazley, What Are YOU Like, Ian Dejardin, Director of DPG?, Dulwich OnView, November 25, 2008.

外部リンク

[編集]

座標: 北緯51度26分46秒 西経0度05分11秒 / 北緯51.44611度 西経0.08639度 / 51.44611; -0.08639