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タムパ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

タムパ・クンガ・タクワイリー方式Dampa kundgah grog1230年 - 1303年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えたチベット仏教サキャ派の僧侶。主にセチェン・カアン(世祖クビライ)からオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世にかけて活躍した。

同時代に活躍したパクパパクパ文字の制定など主に文化面で活躍したのに対し、呪術的な力で皇帝に取り入ったチベット仏教僧の代表として知られる[1]。『元史』などの漢文史料では膽巴(dǎnbā)、『集史』などのペルシア語史料ではتنبه(tanba)と記される[2]

概要

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出自

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サキャ・パンディタ

『元史』釈老伝などによるとタムパはチベット高原東部ドカム(Mdo khams)のデマ(bdam ma)出身で、没年からの逆算により1230年頃に生まれたとみられる[3]。別名をクンガタク(kundgah grog > gōngjiāgégělàsī/功嘉葛剌思)といい、西インドの古達麻失利に師事して仏教の秘宝を学んだという[4][5][6]。1250年代には時の皇帝モンケ・カアンの弟クビライがサキャ・パンディタの名声を聞いてこれを招いたが、サキャ・パンディタは既に亡くなっていたためその甥のパクパが1253年よりクビライに仕えるようになった。その後、中統年間(1260年-1263年)にパクパの推挙によってタムパもクビライに仕えるようになった[6][7]。当初は命を受けて五台山の寿寧寺に居したが、1272年至元9年/壬申)に京師(大都)に戻って王侯貴族に戒律を授けたという[3]

この頃、懐州・孟州で大旱魃が起こっていたが、クビライの命を受けたタムパが祈祷を行った所、すぐに雨が降り出した。また、食物の示現を祈る呪文を書いて池に投じると、しばらくして珍しい花・果物・酒樽が波面に湧き出たという[6]。これらの呪術による奇跡を見せたことによってタムパはクビライに気にいられ重用されるようになる[8][9]。また、この頃にはモンゴル軍の南宋への侵攻が本格化していたが、 常州などではモンゴル軍に投降する際に「大黒神」が家に出入りするのを見られたという。大黒神とはすなわちチベットで言うマハーカーラ神であり、タムパは祖父7世よりこの神に仕えていたため、現在に至って国家(大元ウルス)を助けたのだという[10][11]

サンガとの対立

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クビライの治世末期、チベット仏教僧のサンガは経理の才を見込まれてクビライに重用されたが、実は元々はタムパの弟子として戒律を受けた人物であった。ところが、 サンガは権勢を極めると師のタムパとも対立するようになり、タムパはサンガに身を戒めるよう責めたが、かえってサンガはタムパの讒言を行うようになったという。これによってタムパは1282年(至元19年/壬午)に西方のチベットに帰還することを強く願い出、クビライもこれを引き留められなかったためにタムパは雲中・臨兆を経てチベット高原に向かった[3][12]。しかしほどなくしてサンガらが再び讒言を行ったため1289年(至元26年/己丑)にタムパは召喚されて都の聖安寺に留まった後、同年4月に潮州に流されてしまった[13][14]

配流先では枢密副使の月的迷失が潮州を治めていたが、ある時タムパは月的迷失の妻が病にかかっているのを知ると、数珠をその体に当てることで病気を治してしまったという[15]。又ある時、月的迷失はタムパが中央に復帰する時期を予言する予知夢を見たが、後にこの夢は現実として的中していった[16][17][18]

1290年(至元27年/庚寅)5月、大雨によって洪水が起こったが、たまたま良材が近くにあったために被害を留めることができた。これを見た人々は鬼神がこれを運んだのだと語ったという。そしてこの翌年、サンガが失脚したことによりタムパは都に帰還することができた[19]1293年(至元30年/癸巳)にはクビライが病に陥ったため、タムパが7日間祈祷したところ快癒し、白金50錠を与えられた[20]

オルジェイトゥ・カアンの治世

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1294年(至元31年/甲午)にクビライが亡くなりオルジェイトゥ・カアンが即位すると、タムパはますます重用されていった[21]。オルジェイトゥ・カアンの即位直後の1295年元貞元年/乙未)4月、クビライの時代に建立された大護国仁王寺にタムパを居住させた。この時、オルジェイトゥ・カアンはタムパが出立するに当たり太府に命じて近衛儀仗隊を動員し、更に百官に護送させるという厚遇を見せている[22]。また、皇帝の代替わりを好機と見た西方のカイドゥがチベット西北方面に侵攻したが、タムパがマハーカーラ神に祈祷するとはたして勝利の報告がもたらされたという[23][24][25]

1297年大徳元年)頃[注釈 1]には国庫より購入した宝石が定価の倍額で買い取ったものであり、その差額分をダシュマントイナクイーサー・ケレメチイグミシュテケら高官が賄賂として受けとったことが判明するという疑獄事件が起こった[26]。かつてサンガと組んでいたために失脚していたシハーブッディーンが会計監査を行い、宝石を売却した商人を始め、高官12名が捕らえられた。オルジェイトゥ・カアンの母ココジンが減免をはたらきかけたが果たせず、高官たちはタムパに救いを求めた。この時彗星が観測されていたため、タムパは彗星への祈祷を理由に囚人の解放を要請し、オルジェイトゥ・カアンはこれを受け容れて囚人を解放したという[27]。なお、この疑獄事件はなぜか『元史』をはじめ漢文史料には一切言及されておらず、『集史』テムル・カアン紀にのみ記されている。しかし、これ以後「国家の主催する仏事にあわせて、有力仏教僧の要請に基づいて囚人を赦免すること」が大元ウルスで常態化し、漢文史料上でもチベット仏教僧のもたらす弊害の最たる者として特筆されるようになる[28]

晩年

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1302年(大徳6年/壬寅)2月、オルジェイトゥ・カアンは巡幸中に柳林に至った所で病にかかったが、 タムパが7日間にわたって祈祷を行ったことで快癒したという[23]。この功績にオルジェイトゥ・カアンは厚く報い、側近くに仕える者として御前校尉10名を与えただけでなく、京師の囚人38名を大赦として開放した[29][30]。また、この巡幸中タムパは象車の先導を仰せつかっていたが、3月24日に雲州に至ったところで 「ここには霊怪がおり、天子の乗輿を脅かすに違いない。 密かに呪文を唱えて鎮めておかねばなるまい」と語った。それから間もなく風雨が吹き荒れ随行員に被害をもたらしたが、オルジェイトゥ・カアンの周辺だけが被害を受けなかったため、これをタムパの功績と認めたオルジェイトゥ・カアンによって碧玉が埋め込まれた美しい杯が下賜された[31][32]

しかしそれから間もなく、1303年(大徳7年)にタムパは没し[33][34]皇慶年間(1312-1313年)に「大覚普恵広照無上膽巴帝師」と追号されている[35][36]

人物

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フレグ・ウルスで編纂されたペルシア語史料の『集史』「クビライ・カアン紀」には以下のような記述がある[37]

[クビライ・]カアンの治世の末、二人のバクシ(僧侶)がいた。一人はダンパと言い、もう一人はLBNH(詳細不明)と言った。タンパ・バクシは二本の前歯が非常に長く、唇を閉じられないほどであった。[彼らは]カアンの私的な寺院ーナンギャス(江南)ではそう呼ぶーに坐している。互いに二人は親族であり、カアンの傍らにあり、非常に尊敬を受け、大バクシである。彼らの家系はチベットの王家出身であり、カタイ(華北)やインドのバクシも多く存在しているが、チベット人がより権勢を誇っていた。 — ラシードゥッディーン、『集史』「クビライ・カアン紀」[38]

ここで見られる「LBNH」 をパクパと解釈する説もあるが[39]、いずれにせよモンゴル人自身の歴史観が強く反映されている『集史』にパクパよりもタムパの方が詳述されていることは特筆される[40]

また、『ダライラマ仏教史』によると第3代帝師ダルマパーラ・ラクシタの時代にその父と叔父の間で不和が起こり、サンポペル(Bzan po dpal)なる人物も讒言を受けて海島に流された。帝師の没後にポンチェンのアクレンが赦免を願い出るも許されなかったが、ある時タムパが宮中に雹が降ったのを古祥であるとして赦免を願い出たことによってはじめてサンポペルは許されたという[23]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『集史』テムル・カアン紀にはこの事件がいつ頃起こったか明記されていないが、「タムパが彗星を理由に祈祷した」との記述から、漢文史料で彗星を観測したと記される大徳元年2月27日よりほど遠くない時期に起こった事件であると考えられる(宮2018,351頁)

出典

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  1. ^ 村岡1996,83頁
  2. ^ Rawshan1373,p930
  3. ^ a b c 稲葉1963,180頁
  4. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「八思巴時、又有国師膽巴者、一名功嘉葛剌思、西番突甘斯旦麻人。幼従西天竺古達麻失利伝習梵秘、得其法要」
  5. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「大徳七年、膽巴金剛上師没。師名功嘉葛刺思、此云普喜名聞。又名膽巴、此云微妙。西番突甘斯旦麻人。幼孤依季父、聞経止啼、知其非凡。遣侍法王上師、試以梵咒、隨誦如流。曰『此子宿積聡恵異、日当与衆生作大饒益』」
  6. ^ a b c 野上1978,21-22頁
  7. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「年十二訓以前名。自是経科哭式壇法明方、靡不洞貫。年二十四講演大喜楽本續等文、四衆悦服。上師令巴至西天竺国参礼古達麻室利習梵典、尽得其伝。初世祖居潜邸、聞西国有綽理哲瓦道徳、願見之、遂往西涼遣使請於廓丹大王。王謂使者曰『師已入滅、有姪癹思巴、此雲聖寿。年方十六、深通仏法』。請以応命至都旬日即乞西還。上召問曰『師之仏法比叔如何』。曰『叔之仏法如大海水。吾所得者以指點水於舌而已』。問答允称。上喜曰『師年雖少種性不凡、願為朕留当求戒法』。尋礼為師。巴入中国、詔居五台寿寧」
  8. ^ 村岡1996,83-84頁
  9. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「中統間、帝師八思巴薦之。時懐孟大旱、世祖命祷之、立雨。又嘗咒食投龍湫、頃之、奇花異果上尊湧出波面、取以上進、世祖大悦」
  10. ^ 村岡1996,84頁
  11. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「壬申、留京師王公咸稟妙戒、初天兵南下。襄城居民祷真武。降筆云。有大黒神。領兵西北方来。吾亦当避。於是列城望風□附。兵不血刃。至於破常州、多見黒神出入其家、民罔知故。実乃摩訶葛刺神也、此云大黒。蓋師祖父七世事神甚謹、隨祷而応、此助国之験也。乙亥師具以聞、有旨建神廟於涿之陽。結構橫麗神像威厳。凡水旱蝗疫、民祷響応」
  12. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「辛巳歳、師得道藏化胡経並八十一化図、幻惑妄誕。師乃嘆曰『以邪惑正如此者』。遂奏聞。召教禪大徳及翰林承制等。詣長春宮辯證辨偽録明詔下諸路除道徳経外。其餘偽文尽令焚毀。至壬午、師力乞西帰、上不能留。初相哥受師戒、継為帝師。門人屢有言其豪横自肆者、師責而不悛、由是御之。逮登相位、懼師讜直必言于上。乃先入巧言贊師、故有是請。首於雲中、次至西夏、以及臨洮。求法益衆、未幾権臣復譖。令帰本国。師至故里閱六寒暑」
  13. ^ 野上1978,21-22/244/263頁
  14. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「己丑、相哥遣使伝召還都、於聖安寺安置。四月、赴省聴旨。令往潮州。師忻然引侍僧昔監藏。子身乗駅。即日南向。及出都門。雷雨冥晦。由汴涉江洎于閩広。所至州城俱沾戒法」
  15. ^ 野上1978,23頁
  16. ^ 野上1978,23-24
  17. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「至元末、以不容於時相桑哥、力請西帰。既復召還、謫之潮州。時枢密副使月的迷失鎮潮、而妻得奇疾、膽巴以所持数珠加其身、即愈。又嘗為月的迷失言異夢及己還朝期、後皆験」
  18. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「八月、抵潮陽、館于開元寺。有枢使月的迷失、奉旨南行、初不知仏。其妻得奇疾、醫祷無験、聞師之道礼請至再、師臨其家尽取其巫覡繪像焚之、以所持数珠加患者身、驚泣乃蘇。且曰、夢中見一黒悪形人、釈我而去。使軍中得報喜甚、遂能勝敵、由是傾心仏化。師謂門人曰。潮乃大顛韓子論道之処。宜建刹利生。因得城南浄楽寺故基。将求材。未知其計。寺先有河。断流既久」
  19. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「庚寅五月、大雨傾注河流暴溢、適有良材泛集充斥、見者驚詫咸謂鬼輸神運焉。枢使董工興創、殿宇既完。師手塑梵像、齋万僧以慶賛之。嘗謂昔監藏曰、吾不久有他往、宜速成此寺。後師還都、奏田二十頃、賜額宝積焉。未幾召還、相哥已伏誅矣」
  20. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「癸巳夏五上患股、召師於内殿建観音獅子吼道場、七日而愈、施白金五十錠。敘及相哥譖師之語、師以宿業為対、宰臣莫淡駭服。上謂師曰、師昔勧朕五台建寺、令遣侍臣伯顔司天監蘇和卿等相視山形、以図呈師。師曰、此非小縁、陛下発心寺即成就。未幾上宴駕」
  21. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「甲午四月、成宗皇帝踐祚。遣使召師、師至慶賀畢。奏曰『昔成吉思皇帝有国之日、疆土未広、尚不徵僧道税糧。今日四海混同万邦入貢。豈因微利而棄成規。倘蠲其賦則身安志專。庶可勤修報国』。上曰『師与丞相完沢商議』。奏曰『此謀出於中書省官。自非聖裁他議何益』。上良久曰。明日月旦就大安閣釈迦舍利像前修設好事。師宜早至。翌日師登内閣。次帝師坐。令必闍赤朗宣敕旨。顧問師曰『今已免和上税糧、心歓喜否』。師起謝曰。天下僧人咸沾聖沢」
  22. ^ 稲葉1963,180-181頁
  23. ^ a b c 稲葉1963,181頁
  24. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「元貞間、海都犯西番界、成宗命祷于摩訶葛剌神、已而捷書果至」
  25. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「元貞乙未四月、奉詔住大護国仁王寺。敕太府具駕前儀仗、百官護送。寺乃昭睿順聖皇后所建、其厳好若天宮内苑移下人間。是年遣使詔師問曰、海都軍馬犯西番界、師於仏事中能退降否。奏曰『但祷摩訶葛刺、自然有験』。復問曰『於何処建壇』。対曰『高梁河西北甕山有寺、僻静可習禪覯』。敕省府供給厳護、令丞相答失蛮上親染宸翰云。這句当怎生用心。師理会者師的句当。朕理会得也。於是建曼拏羅依法作觀、未幾捷報至、上大悦」
  26. ^ 宮2018,351頁
  27. ^ 村岡1996,89-90頁
  28. ^ 野上1978,267-269頁
  29. ^ 野上1978.26頁
  30. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「壬寅春二月、帝幸柳林遘疾、遣使召云。師如想朕、願師一来。師至幸所就行殿修觀法七尽晝夜、聖体乃瘳。敕天下僧寺普閱藏経、仍降香幣等施、即大赦天下。上曰。賴師攝護朕体已安。即解頸七宝牒為施。皇后亦解宝珠瓔珞施之。並施尚乗車輦騾馬白玉鞍轡金曼答喇黃白金各一錠官幣十八匹。御前校尉丁人為師前導」
  31. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「又為成宗祷疾、遄愈、賜与甚厚、且詔分御前校尉十人為之導従。成宗北巡、命膽巴以象輿前導。過雲州、語諸弟子曰『此地有霊怪、恐驚乗輿、当密持神呪以厭之』。未幾、風雨大至、衆咸震懼、惟幄殿無虞、復賜碧鈿盃一」
  32. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「三月二十四日、大駕北巡、命師象輿行駕前。道過雲州龍門、師謂徒衆曰『此地龍物所都。或興風雨恐檠乗輿。汝等密持神咒以待之』。至暮雷電果作四野震怖。独行殿一境無虞。至上都。近臣咸謝曰。龍門之恐賴師以安。癸卯夏師示疾。上遣御醫候視。師笑曰。色身有限。薬豈能留」
  33. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「大徳七年、膽巴金剛上師没」
  34. ^ 『仏祖歴代通載』巻22,「五月十八日、師問左右、今正何時。対曰『日当午矣』、師即斂容端坐面西而逝。上聞悲悼不勝、賜沈檀衆香就上都慶安寺塔茶毗。王及四衆莫不哀側。『仏祖歴代通載』巻22,「是月二十九日、敕丞相答失蛮、開視焚塔。見師頂骨不壊、舍利不計其数、輪殊坐氈如故。回奏。加歎敕大都留守。率承応伎楽迎舍利帰葬仁王寺之慶安塔焉。世寿七十有四、僧臘六十二。秘密之教彼土以大持金剛為始祖。累傳至師益顯」
  35. ^ 野上1978,27頁
  36. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「大徳七年夏、卒。皇慶間、追号大覚普恵広照無上膽巴帝師」
  37. ^ Rawshan1373,p930/Thackston2012,p323/余大鈞・周建奇1985,356-357頁
  38. ^ 訳文は村岡1996,85頁より引用
  39. ^ 中村2008,228頁
  40. ^ 村岡1996,86頁

参考文献

[編集]
  • 稲葉正枝「元のラマ僧膽巴について」『印度学仏教学研究』11巻1号、1963年
  • 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
  • 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
  • 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
  • 野上俊静『元史釈老伝の研究』野上俊静博士頌寿記念刊行会、1978年
  • 村岡倫「元代モンゴル皇族とチベット仏教:成宗テムルの信仰を中心にして」『仏教史学研究』第39巻1号、1996年
  • ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh
    • (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995] )
    • (英訳) Thackston, W. M, Classical writings of the medieval Islamic world v.3, (London, 2012)
    • (中訳) 余大鈞,周建奇訳『史集 第2巻』商務印書館、1985年