タイ・ヴァン・トアン
タイ・ヴァン・トアン | |
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各種表記 | |
漢字・チュノム: | 蔡文瓚 |
北部発音: | タイ・ヴァン・トアン |
タイ・ヴァン・トアン(ベトナム語:Thái Văn Toản / 蔡文瓚、同慶乙酉年11月22日(1885年12月27日) - 1952年)は、グエン朝ダイナムの官吏。字はティエン・ケー(ベトナム語:Thiện Khê / 善溪)。
生涯
[編集]クアンチ省ハイラン県の出身。チエウフォン府知府タイ・ヴァン・ブットの子として生誕した。母の阮福爾絲は従善公阮福綿審の九女(明命帝の孫娘)であった。ハノイにある通言場(通訳学校)で教育を受け、その後植民地政府に就職し、在ゲアン公使の参事官(参佐)として勤めた。啓定3年(1918年)、啓定帝より命じられてトゥアンホアに在職となり、鴻臚寺卿に封じられ、御前通事に任命された。啓定4年(1919年)には光禄寺卿に昇進し、啓定5年(1920年)には太常寺卿に昇進した。
啓定7年(1922年)に参知銜に昇進し、啓定帝に同行して訪仏し、護駕文臣として働いた。啓定8年(1923年)にはクアンナム省の布政使に昇進し、巡撫[注 1]を代行した。この間、1〜2カ月に一度都のトゥアンホアに戻ることを許された[注 2]。啓定9年(1924年)にはトゥアティエン府府尹[注 3]の権利を得て、啓定10年(1925年)には承天府尹に正式に就任した。
保大2年(1927年)、タインホア総督に就任した。保大5年正月(1930年2月)に戸部尚書に昇進し、機密院大臣に任命された。保大6年(1931年)には協弁大学士の職務を授かった。保大7年(1932年)にフランスに赴いて、留学していたバオダイ帝を帰国させた。
保大8年(1933年)夏にバオダイ帝は内閣を改革したが、トアンは唯一尚書に留任され、工作部・美術部及び礼儀部尚書に転任し、機密院大臣に就任した。3カ月後には吏部尚書であったゴ・ディン・ジエムが退任したことに際し、閏5月30日(7月22日)に吏部尚書に転任した[1]。
保大13年(1938年)、クイ・ティエン・ナム(ベトナム語:Qui Thiện Nam / 歸善男)に封じられた[2][3]。
保大17年3月28日(1942年5月12日)に東閣大学士に昇進し、范瓊から吏部尚書を引き継いだ[4][5]。
1946年にゲアン省に移住し、ベトナム民主共和国の第四連区に顧問として招かれた。1952年、ゲアン省アインソン県バクゴク社において、69歳で没した。
家族
[編集]妻に尊女氏良錦(戒名はタイン・ティエン(ベトナム語:Thanh Thiện / 清善))が、娘に蔡氏如珪(阮文定の妻)がいた。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “保大八年第50號上諭”. Bulletin administratif de l'Annam. 2020年12月23日閲覧。
- ^ “新封男爵上諭” (第304期). 《長安報》 (1938年3月18日). 2020年12月23日閲覧。
- ^ “今日舉行男爵宣封礼” (第306期). 《長安報》 (1938年3月25日). 2020年12月23日閲覧。
- ^ “南朝政府升賞官員” (新版第16期). 《長安報》 (1942年5月19日). 2020年12月23日閲覧。
- ^ “順化朝廷改組内閣” (第456期第2版). 《L'Écho annamite》 (1942年5月18日). 2020年12月23日閲覧。