タイラー・リー・バンバークレオ
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州オークランド |
生年月日 | 1962年10月7日(62歳) |
身長 体重 |
6' 5" =約195.6 cm 225 lb =約102.1 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1981年 アマチュアFA |
初出場 |
NPB / 1988年4月9日 MLB / 1993年7月28日 |
最終出場 |
NPB / 1991年9月1日 MLB / 1994年7月30日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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タイラー・リー・バンバークレオ(Tyler Lee Van Burkleo, 1962年10月7日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。左投左打。
MLBでの登録名は、タイ・バンバークレオ(Ty Van Burkleo)。
経歴
[編集]プロ入りとブルワーズ傘下時代
[編集]1981年にミルウォーキー・ブルワーズと契約してプロ入り。
エンゼルス傘下時代
[編集]1984年8月4日にカリフォルニア・エンゼルスと契約した。
1987年6月2日にエンゼルスとの契約を解除となった。
西武時代
[編集]1987年シーズン途中に西武ライオンズに入団した。長身に加え、甘いマスクで、家族共に日本入りした姿が野球ファンの間で話題になった。登録名は最初はバンバークレオであったが、すぐにバークレオに変更されている(背ネームはVAN BURKLEOのまま)。
西武入団1年目は外国人枠の関係もあり二軍で過ごした。
1988年は認められ、一軍の5番に定着して打ちまくり、満塁本塁打4本を含むチームトップタイ38本塁打を放ち、チームのリーグ優勝・日本一に貢献(なお、2年目までの推定年俸は当時のレートで700万円と格安であった)。3番・秋山幸二、4番・清原和博の後を打ち、3人はAKB砲といわれた[1]。この3人で100本以上の本塁打を打ち、他球団から恐れられた。中日ドラゴンズとの日本シリーズ第5戦では初回に小野和幸から2点適時打を放っている。
1989年以降は変化球攻めに苦しみ低打率となり、監督の森祇晶は新加入したスイッチヒッターのオレステス・デストラーデを起用するようになる。桁違いの飛距離を誇るにもかかわらず、当時は外国人は一軍登録2人制のため(エース級の郭泰源もいた)再び二軍生活を余儀なくされた。ただし1990年夏、郭が右肘痛で抹消されると一軍に昇格。AKBD砲の一角として9本の本塁打を記録し活躍したが、この年限りで西武を退団した。
当初西武での応援歌の原曲は、名前にちなんだ「歌えバンバン」だった。しかし、1990年に秋山幸二と清原和博以外の全員の応援歌が作り直され、バークレオにも新曲が作られたが、こちらはあまり歌われる機会のないままに終わっている(後にブライアン・ラービーに流用されたが、彼もまた1年通しての活躍はできなかった。その後は関西地区限定で髙木大成に流用された)。
広島時代
[編集]小早川毅彦とポジションを争い、開幕戦こそ「5番・一塁手」で先発出場を勝ち取るも故障もあって低迷した。チームはリーグ優勝を果たしたが、自身はその輪に入れず1年で退団した。
エンゼルス時代
[編集]1992年にエンゼルスと契約した。
1993年7月28日のオークランド・アスレチックス戦(アナハイム・スタジアム)で「7番・一塁手」としてメジャーデビューを果たす。8月3日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で、8回裏にスタン・ベリンダからメジャー初安打となる二塁打を放った。8月16日のデトロイト・タイガース戦では、メジャー唯一の本塁打を同じくNPB経験者であるビル・ガリクソンから放っている。
ロッキーズ時代
[編集]1994年はコロラド・ロッキーズでプレーした。
エンゼルス傘下復帰
[編集]1996年にエンゼルス傘下(当時)のA+級レイクエルシノア・ストームでプレーしたのを最後に引退。
引退後
[編集]引退後、1997年からエンゼルスやアリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下のマイナーで打撃コーチなどを務めた。2007年から2008年までオークランド・アスレチックスの打撃コーチを務め、2009年からはシアトル・マリナーズのベンチコーチに就任した。しかし、2010年8月9日にチームの成績不振のため、監督のドン・ワカマツと共に解任された。
2012年にヒューストン・アストロズ傘下のマイナーチームにて打撃コーチに就任したが、8月19日に解任されたマイク・バーネットに代わる暫定の後任コーチとしてアストロズの打撃コーチをシーズン終了まで務めた。
2013年からはクリーブランド・インディアンスの打撃コーチに就任し、2021年まで務めた[2]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1988 | 西武 | 118 | 453 | 366 | 67 | 98 | 10 | 2 | 38 | 226 | 90 | 3 | 4 | 0 | 1 | 82 | 3 | 4 | 120 | 4 | .268 | .406 | .617 | 1.024 |
1989 | 37 | 135 | 119 | 14 | 25 | 4 | 1 | 6 | 49 | 11 | 0 | 1 | 0 | 0 | 16 | 0 | 0 | 35 | 1 | .210 | .304 | .412 | .715 | |
1990 | 41 | 129 | 112 | 22 | 22 | 3 | 0 | 9 | 52 | 22 | 2 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 | 3 | 34 | 3 | .196 | .302 | .464 | .767 | |
1991 | 広島 | 29 | 73 | 59 | 2 | 12 | 2 | 0 | 2 | 20 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 12 | 0 | 2 | 22 | 3 | .203 | .356 | .339 | .695 |
1993 | CAL | 12 | 39 | 33 | 2 | 5 | 3 | 0 | 1 | 11 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 9 | 0 | .152 | .282 | .333 | .615 |
1994 | COL | 2 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
NPB:4年 | 225 | 790 | 656 | 105 | 157 | 19 | 3 | 55 | 347 | 128 | 5 | 5 | 0 | 1 | 124 | 3 | 9 | 211 | 11 | .239 | .367 | .529 | .896 | |
MLB:2年 | 14 | 44 | 38 | 2 | 5 | 3 | 0 | 1 | 11 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 10 | 0 | .132 | .250 | .289 | .539 |
記録
[編集]- NPB
- 初出場:1988年4月9日、対南海ホークス戦(西武ライオンズ球場)、7番・指名打者で先発出場
- 初打席:同上、3回裏に西川佳明から三振
- 初安打:1988年4月10日、対南海ホークス戦(西武ライオンズ球場)、藤本修二から単打
- 初本塁打・初打点:同上、4回裏に吉田豊彦から右越満塁本塁打
背番号
[編集]- 29(1987年 - 1990年、2013年 - 2021年)
- 5(1991年)
- 46(1993年)
- 27(1994年)
- 39(2007年 - 2008年)
- 44(2009年 - 2010年)
- 45(2012年)
脚注
[編集]- ^ 「君は“AKB”砲を知っているか? | 野球コラム」『週刊ベースボールONLINE』2017年7月22日。2024年5月19日閲覧。
- ^ Mandy Bell「Van Burkleo out as Cleveland's hitting coach」『MLB.com』(英語)、2021年10月6日。2022年2月13日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 個人年度別成績 バークレオ - NPB.jp 日本野球機構