ゼカリヤ書3章
ゼカリヤ書3章(ぜかりやしょ3しょう)は旧約聖書のゼカリヤ書の中の一章。ゼカリヤ書における第4の幻について書かれており、1-7節と8-10節に分けられる。1-7節で第4の幻について、8-10節で託宣が語られる。
他の幻とは異なり、第1~第3の幻に登場してきていた「わたしに語りかけた御使い」が登場しないことや7節以下はゼカリヤに対してではなくヨシュアに対して語られているという特徴がある。[1]
日本語訳
[編集]ゼカリヤ書3章は10節からなる。
— 日本聖書協会新共同訳聖書1節 主は、主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、その右に立って彼を訴えようとしているサタンをわたしに示された。
2節 主の御使いはサタンに言った。「サタンよ、主はお前を責められる。エルサレムを選ばれた主はお前を責められる。ここにあるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」
3節 ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。
4節 御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。「彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。」また、御使いはヨシュアに言った。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」
5節 また、御使いは言った。「この人の頭に清いかぶり物をかぶせなさい。」彼らはヨシュアの頭に清いかぶり物をかぶせ、晴れ着を着せた。主の御使いは立ち続けていた。
6節 主の御使いはヨシュアに証言して言った。
7節 「万軍の主はこう言われる。もしあなたがわたしの道を歩み/わたしの務めを守るなら/あなたはわたしの家を治め/わたしの庭を守る者となる。わたしはあなたがここで仕える者らの/間に歩むことを許す。
8節 大祭司ヨシュアよ/あなたの前に座す同僚たちと共に聞け。あなたたちはしるしとなるべき人々である。わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる。
9節 ここに石がある。これはわたしがヨシュアの前に差し出すものだ。この一つの石に七つの目がある。わたしはそこに碑文を刻む、と万軍の主は言われる。そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く。
10節 その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけて/ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」
— 日本聖書協会共同訳聖書1節 主は、手の使いの前に立つ大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右に立っているサタンとを私に示された。
2節 手の使いはサタンに言った。「サタンよ、主はあなたを叱責される。エルサレムを選ばれた主はあなたを叱責される。ここにいるのは火の中から取り出された燃えさしではないか。」
3節 ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。
4節 御使いは自分の前に立っている者たちに言った。「彼の汚れた衣を脱がせなさい。」そして御使いはヨシュアに言った。「見よ、私はあなたの過ちを取り除いた。あなたに晴れ着を着せよう。」
5節 また、御使いは言った。「彼の頭に清いターバンを巻きなさい。」そこで彼らは、ヨシュアの頭に清いターバンを巻き、衣を着せた。主の使いは傍らに控えていた。
6節 主の使いはヨシュアに向かって証言した。
7節 万軍の主はこう言われる。もしあなたが私の道を歩み私の務めを守るならあなたは私の家を治め私の庭を守るようになる。私はあなたにここに立っている者たちの間で行き来することを許す。
8節 大祭司ヨシュアよあなたも、あなたの前に座っている同僚たちも聞きなさい。
あなたがたはしるしとなる人々である。今、私はわが僕なる若枝を来させる。
9節 見よ、私がヨシュアの前に置いた石を。この一つの石の上には七つの目がある。
私はそこに文字を刻む―万軍の主の仰せ。
そして私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。
10節 その日にはあなたがたは互いに呼びかけてぶどうやいちじくの木の下へ招き合う―万軍の主の仰せ。」
解釈
[編集]舞台設定はヨブ記2章にもあるような天の宮廷における会議である。この会議ではサタンが大祭司ヨシュアを告発している。サタンの語源はשָּׂטָ֛ן(satan)であり、審判における敵対者の意味を持つ。2節ではサタンの訴えが退けられるが、4節に罪を(共同訳聖書では過ち)取り去ったとあるように、ヨシュアに何の罪もないのにサタンが不当に告発しているということではなく、あくまでもエルサレムを選ばれたからであるとしている。
だからこそ火の中から取り出された燃えさし、つまりヨシュアを捕囚から救い出された者として用い、晴れ着を着せ、清いかぶり物(ターバン)を着けさせるのである。
8節の若枝はエレミヤ書23章5節ではメシアを指す用法で使われている。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄えこの国に正義を恵みの業を行う。 — エレミヤ書23章5節、『新共同訳聖書』より引用。(以下、引用はすべて新共同訳)
9節の石の意味には諸説あり、決定的な学説は出ていない。ターバンと関連付けて考えると出エジプト記28章36-38節にあるように、純金の花模様の額当てを宝石に相当すると考え、大祭司の仲介によってユダの罪が赦されるという意味であると考えることができる。
また、純金の花模様の額当てを作り、その上に印章に彫るように「主の聖なる者」と彫りなさい。次に、この額当ての両端に青いねじりひもを付け、ターバンに当てて結び、ターバンの正面にくるようにする。これがアロンの額にあれば、アロンは、イスラエルの人々がささげる献げ物、つまり、聖なる献げ物に関して生じた罪を負うことになる。また、彼がそれを常に額に帯びていれば、彼らは主の御前に受け入れられる。 — 出エジプト記28章36-38節
新約聖書ではヘブライ人への手紙にて真の大祭司がキリストであると述べられている。ヘブライ人への手紙5章8-10節にあるように多くの苦しみと従順により大祭司となり、7章27節にあるようにただ一度自らいけにえとなることによって贖いを成し遂げ、12章2節にあるようにこの世の栄光を捨てることによって神の栄光を受けたのである。[1][2]
キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 — ヘブライ人への手紙5章8-10節
この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。 — ヘブライ人への手紙7章27節
信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 — ヘブライ人への手紙12章2節