セント・ヘレンズ男爵
セント・ヘレンズ男爵 (第2期) Baron St. Helens | |
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創設時期 | 1964年12月31日 |
創設者 | エリザベス2世 |
貴族 | 連合王国貴族 |
初代 | 初代男爵マイケル・ヒューズ=ヤング |
現所有者 | 2代男爵リチャード・ヒューズ=ヤング |
相続人 | ヘンリー・ヒューズ=ヤング閣下 |
付随称号 | なし |
モットー | 押し通せ (Press Through) |
セント・ヘレンズ男爵(セント・ヘレンズだんしゃく、英: Baron St. Helens)は、イギリスの貴族爵位。アイルランド貴族で1度、連合王国貴族で2度創設されており、そのうち連合王国貴族における2度目の創設のみ存続している。
歴史
[編集]グレートブリテン王国の外交官アレイン・フィッツハーバート(1753–1839)は1789年のヌートカ危機においてスペインとの紛争を解決した功績により、1791年1月26日にアイルランド貴族であるセント・ヘレンズ男爵(Baron Saint Helens)に叙された[1]。第二次武装中立同盟が崩壊した後、1801年6月にロシア帝国との貿易協定締結に成功したことで、1801年7月31日に連合王国貴族であるサウサンプトン州セント・ヘレンズにおけるセント・ヘレンズ男爵(Baron Saint Helens, of Saint Helens, co. Southampton)に叙された[2]。しかしアレインは生涯未婚であり、その死をもって2つのセント・ヘレンズ男爵位は廃絶した[2]。
保守党の政治家マイケル・ヒューズ=ヤング(1912–1980)は1964年12月31日に連合王国貴族であるランカスター州セント・ヘレンズにおけるセント・ヘレンズ男爵(Baron St. Helens, of St. Helens, co. Palatine of Lancaster)に叙された[3]。長男に先立たれたため、初代男爵の死後は次男リチャード・ヒューズ=ヤング(1945–)が2代男爵となった[3]。
セント・ヘレンズ男爵(1791年、1801年)
[編集]- 初代セント・ヘレンズ男爵アレイン・フィッツハーバート(1753年 – 1839年)
セント・ヘレンズ男爵(1964年)
[編集]- 初代セント・ヘレンズ男爵マイケル・ヘンリー・コリン・ヒューズ=ヤング(1912年 – 1980年)
- パトリック・マイケル・ヒューズ=ヤング閣下(1942年 – 1970年)
- 第2代セント・ヘレンズ男爵リチャード・フランシス・ヒューズ=ヤング(1945年 – )
爵位の法定推定相続人は現当主の息子ヘンリー・トマス・ヒューズ=ヤング閣下(1986年 – )である。
出典
[編集]- ^ Cokayne & White 1949, p. 315.
- ^ a b Cokayne & White 1949, p. 316.
- ^ a b Cokayne & Hammond 1998, p. 841.
参考文献
[編集]- Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1949). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Rickerton to Sisonby) (英語). Vol. 11 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 314–316.
- Cokayne, George Edward; Hammond, Peter W., eds. (1998). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Addenda & Corrigenda) (英語). Vol. 14 (2nd ed.). Stroud: Sutton Publishing. p. 841. ISBN 978-0-7509-0154-3。