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ステレンボッシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ステレンボッシュ
Stellenbosch
愛称 : エイケスタッド(オークの町)
位置
ステレンボッシュの位置(南アフリカ共和国内)
ステレンボッシュ
ステレンボッシュ
ステレンボッシュ (南アフリカ共和国)
ステレンボッシュの位置(西ケープ州内)
ステレンボッシュ
ステレンボッシュ
ステレンボッシュ (西ケープ州)
ステレンボッシュの位置(アフリカ内)
ステレンボッシュ
ステレンボッシュ
ステレンボッシュ (アフリカ)
座標 : 南緯33度55分12秒 東経18度51分36秒 / 南緯33.92000度 東経18.86000度 / -33.92000; 18.86000
歴史
設立 1679年
創設者 シモン・ファン・デル・ステル
行政
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
  西ケープ州
 地区自治体 ケープ・ワインランド郡
 地方自治体 ステレンボッシュ地方自治体
 地区 ステレンボッシュ
地理
面積  
  地区域 831.04 km2
標高 136 m (446 ft)
人口
人口 (2011年現在)
  地区域 155,733人
その他
等時帯 南アフリカ標準時 (UTC+2)
公式ウェブサイト : [1]

ステレンボッシュまたはステレンボスアフリカーンス語: Stellenbosch)は、南アフリカ共和国の都市。同国南西部に位置し、西ケープ州に属する。ケープタウンからは50km東に位置する。南アフリカで2番目に古い町であり、ワイン生産とステレンボッシュ大学を擁する文教都市として知られている。また、街中には大きなオークの並木があり、そのためこの街はエイケスタッド(アフリカーンス語: Eikestad、「オークの町」の意)という愛称で呼ばれている。

ステレンボッシュ全景。パーペハーイベルグからのパノラマ

歴史

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ステレンボッシュは1679年[1]ケープ植民地総督のシモン・ファン・デル・ステルによって建設された。街の名は「ステルの森」という意味である。ケープ植民地ではケープタウンについで2番目、ケープ半島以外や内陸部にはじめて建設された都市であり、オランダ人の内陸部進出の拠点となった。町は急速に発展し、1682年には地方自治体となり、1685年にはこの街の判事の管轄区域は2万5千平方キロにも及ぶようになっていた。オランダ人は水利工学に長けており、街中を流れるアーステ川から水路をひいて水車小屋を設置した。[2][3]初期の訪問者たちは、オークの木や庭園について記録を残している[4]1683年には学校が開かれ、1685年にはオランダ改革派教会がケープで2番目の教区を設置した。1688年になるとナントの勅令の廃止によってケープへと逃れてきたユグノーたちがステレンボッシュに大量に入植した。この地方の渓谷がヨーロッパによく似た気候と肥沃な土に恵まれていることに気がついたユグノーはこの地でブドウ栽培を開始し、現在のケープ・ワインの基礎を築いた。

ケープ植民地が英領となっても、この町はオランダ人やドイツ人フランス人の入植者たちが融合したアフリカーナーの中心都市のひとつとなっていた。1833年にはステレンボッシュの人口は16137人[5]であり、内訳は奴隷が8555人、白人が6066人、コイコイ人が1220人、自由黒人が296人だった。1859年にはオランダ改革派教会の神学校が設置され、1860年には南アフリカ最古の女子高校であるレニッシュ女子高が開校した。1866年にはステレンボッシュ・ギムナジウムが開校し、これらの高等教育部分をまとめて1874年にヴィクトリア・カレッジが開校し、1918年には改組されてステレンボッシュ大学となった。ボーア戦争中には兵の訓練キャンプがおかれた。

人口と地理

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人種構成(ステレンボッシュ) 2011
カラード
  
52.24%
バントゥー系民族黒人
  
28.07%
白人アフリカーナー及び
アングロアフリカン
  
18.46%
アジア系
  
0.40%
母語話者(ステレンボッシュ) 2011
アフリカーンス語
  
67.66%
コサ語
  
20.78%
英語
  
7.22%

ステレンボッシュの人口は155,733人(2011年)であるが、この数字は学生を含まないため実際にはこれよりも多い。住民の多くはアフリカーンス語を話すが、英語やコーサ語を話す大きなコミュニティもある。この街の黒人のほとんどはコーサ語を話すが、街の大多数を占めるカラード、アフリカーナー、コイコイ人はアフリカーンスを話す。ステレンボッシュは山に囲まれた渓谷に位置しており、西のパーペハーイベルグ、南のステレンボッシュ山とシモンズベルグ、東から南東のユンカースフークや大ドラケンステイン山などに囲まれている。

ステレンボッシュ東郊の冬

ワインランド

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ステレンボッシュのワイン農園

ステレンボッシュは南アフリカ一のワイン産地として知られ、近隣のパールやフランシュフックを含めた地域はワインランドと呼ばれ、郡名にもなっている。気候は地中海性気候で、土壌は暗色の粘土質であり、排水のよい丘陵が広がっている。夏は暑くて乾燥しており、2月や3月には気温は30℃以上になる。冬は涼しく雨が降り、風が強い。日中の平均気温は16℃である。雪は周囲の山々に年に数度降る。春と秋は20度前後で気温は安定している。こうした条件が質のよいワインを作り出すのに寄与している。また、ステレンボッシュ大学にはワイン学科があり、ブドウ栽培や醸造の研究が盛んなことも隆盛の理由となっている。ステレンボッシュでは、カベルネ・ソーヴィニヨンが栽培されている[6]。ステレンボッシュ周辺にはブドウ畑が広がり、ケープ・ダッチ様式のワイナリーが点在する。その美しい田園風景と美味なワインを求め、南アフリカ国内やヨーロッパから近年観光客が多く訪れるようになり、ステレンボッシュの新たな産業となっている。

交通

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メトロレールによってケープタウン中央駅との間に近郊列車が運行されている。ケープタウン駅からの所要時間は1時間10~20分前後である。

大学都市

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ステレンボッシュ大学

ステレンボッシュのもうひとつの産業は教育である。1863年に前身が開設され、1918年に改組されたステレンボッシュ大学はアフリカーナーの中心教育機関となり、英語系のケープタウン大学ウィットウォーターズランド大学と対抗するアフリカーンス語教育の中心地として政治家など多数の人材を輩出した。現在では10学部、25000人の学生が学んでいる。大学の公用語はアフリカーンス語たが、アパルトヘイトの撤廃とともに英語での教育も行われるようになり、大学院ではむしろ英語が主流となっている。

脚注

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  1. ^ レナード・トンプソン著、宮本 正興・峯 陽一・吉国 恒雄訳、1995、『南アフリカの歴史』、明石書店 ISBN 4750306991、p.92
  2. ^ Statistics of the Colonies of the British Empire in the West Indies, South America, North America, Asia, Austral-Asia, Africa and Europe: From the Official Records of the Colonial Office. Robert Montgomery Martin, 1839. London: W.H. Allen and Co. (p. 496)
  3. ^ State of the Cape of Good Hope, in 1822. William Wilberforce Bird. 1823. London: J. Murray.
  4. ^ The Life and Labours of George Washington Walker: of Hobart Town, Tasmania. James Backhouse and Charles Tylor, 1862. Tasmania: Thomas Brady (pp. 498-499)
  5. ^ History of Southern Africa: Comprising the Cape of Good Hope, Seychelles, &c. Robert Montgomery Martin, 1836. London: Whittaker & Co.
  6. ^ The-Wine-Library