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ステファニー・タシェ・ド・ラ・パジュリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ステファニー・タシェ・ド・ラ・パジュリ
Stéphanie Tascher de La Pagerie
ダランベール公爵夫人ステファニー、ジャン=バティスト・イザベイによる細密画、1809年頃

称号 フランス皇女
ダランベール公爵夫人
出生 (1788-08-04) 1788年8月4日
フランス王国フォール・ロワイヤル
死去 (1832-10-26) 1832年10月26日(44歳没)
フランスの旗 フランス王国パリ
配偶者 ダランベール公プロスペル=ルイ
  ギー=ジャック=ヴィクトル・ド・ショーモン・ド・キトリ侯爵
子女 ステファニー・ド・ショーモン=キトリ
オドン・ド・ショーモン=キトリフランス語版
家名 タシェ家
父親 ロベール=マルグリット・タシェ・ド・ラ・パジュリ男爵
母親 ジャンヌ・ル・ルー・ド・シャペル
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マリー=ローズ=フランソワーズ=ステファニー・タシェ・ド・ラ・パジュリMarie-Rose-Françoise-Stéphanie Tascher de La Pagerie, 1788年8月4日 - 1832年10月26日)は、フランスの海外植民地マルティニーク出身の女性。従姉のジョゼフィーヌ・ド・ボアルネとの縁故でフランス第一帝政の皇帝一族に数えられ、フランス皇女(princesse impériale)の称号を与えられた。

生涯

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フランス海軍大尉ロベール=マルグリット・タシェ・ド・ラ・パジュリ男爵(1740年 - 1806年)と妻ジャンヌ・ル・ルー・ド・シャペル(1754年 - 1822年)の間の末娘。一族はフランスの貴族家門タシェ家フランス語版のうち、1726年にカリブ海のマルティニークに居住した分家である[1]

17歳か18歳の頃、すでに皇帝ナポレオン1世の皇后となっていた従姉ジョゼフィーヌの宮廷に呼び寄せられ、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯世子カールの妻となる縁談が進められた。侯世子はジョセフィーヌの親友、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯妃アマーリエ・ゼフィリーネの一人息子だった。侯妃は後年の回想録に開陳しているように、ステファニーと自分の息子とはそりが合わないと思っており、この縁談に反対だった。婚約延期の申し出がジグマリンゲン侯家から来ると、ジョゼフィーヌは従妹のために別の縁談を探し始めた[2]

次なる花婿候補はライン連邦諸侯の一員であるダランベール公プロスペル=ルイで、彼との縁談はまとまった。2人は1808年2月1日に結婚した。ステファニーは義理の従兄のフランス皇帝から100万フランの持参金[3]とフランス皇女の称号を与えられており、これは花婿側にとって重要な政略結婚だった。夫は29歳で、1メートル62センチと小柄な体格で風采は良くなく、家柄だけが取り柄だった。

夫の公爵は半島戦争で自身の率いるダランベール軽騎兵連隊(Chevau-Légers d’Aremberg)と共にフランス軍の同盟軍として戦った。1810年末、フランス元老院の決議により、自身の領邦アーレンベルク=メッペン公国ドイツ語版がフランスに併合されたのちも、彼はフランスに忠節を尽くして従軍を続け、そして1811年10月28日に深手を負ってイギリス軍の捕虜となり、1814年まで英国に抑留された。

一方のステファニーは婚礼以来ずっとパリとサン=クルーで生活しており、夫の領国に足を踏み入れたこともなかった。公爵夫妻の夫婦生活に愛情は一切なく、1814年の暮れから1815年の年明けにかけての冬の時期に、公爵がウィーン会議で自身の領邦主権を取り戻そうと運動している間に、夫婦関係は完全に破綻した。この時期、ステファニーに愛人がいるという噂が広まったためであった。2人は間に子をもうけぬまま1816年8月29日にパリの民事裁判所で離婚した。教会法上の婚姻無効は1818年8月21日に教皇の認可が下りた。

1819年11月12日、彼女は32歳のフランス陸軍将校、ギー=ジャック=ヴィクトル・ド・ショーモン・ド・キトリ侯爵(1787年 - 1851年)と再婚した[4]。侯爵は騎兵中隊長の任にあり、ナポレオン皇帝の大侍従(Grand Chambellan)の肩書を有していた[5]。2人は婚礼の4日前に婚姻契約を交わしている。侯爵夫妻は間に1男1女をもうけた。

参考文献

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  • Georg Hassel (Hrsg.): Genealogisch-historisch-statistischer Almanach. 9. Jahrgang (1832), Weimar 1832, S. 290, 394 (Google Books).
  • Deutsches Adelsarchiv (Hrsg.): Genealogisches Handbuch des Adels. Verlag C. A. Starke, 1968, S. 242.
  • Hugues A. Desgranges: Nobiliare du Berry. Lyon 1971, Band 1, S. 262.
  • Patrick Van Kerrebrouck: La Maison de Bourbon. (= Nouvelle histoire généalogique de l’Auguste Maison de France. Band 4) 1987, ISBN 978-2-95015-090-5, Band 2, S. 651.

外部リンク

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引用・脚注

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  1. ^ Peter Neu: Regesten des Archivs der Grafen von Sponheim, 1065–1437. Band 4: 1426–1437 (Regesten Nr. 4240–4875). (= Die Arenberger und das Arenberger Land. Band 4: Das 19. Jahrhundert. Vom Souverän zum Standesherrn.) 1993, ISBN 978-3-92201-870-4, S. 245
  2. ^ Paul Sauer: Napoleons Adler über Württemberg, Baden und Hohenzollern. Südwestdeutschland in der Rheinbundzeit. Verlag Kohlhammer, Stuttgart 1987, S. 211
  3. ^ Klemens Wenzel Lothar von Metternich: Denkwürdigkeiten. Verlag G. Müller, München 1921, Band 22, S. 480
  4. ^ ショーモン=キトリはステファニーと死別した翌1833年、コンデ親王の庶出の娘で親王の副官リュリフランス語版伯爵の未亡人であるアデライード・ド・ブルボン(1780年 - 1874年)と再婚している
  5. ^ Famille de Tascher & de Tascher de La Pagerie & de Pouvrai (PDF), abgerufen am 23. Oktober 2018