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ステア伯爵

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ステア子爵から転送)
ステア伯爵
Earl of Stair

紋章記述

Arms:Quarterly: 1st grandquarter, Or on a Saltire Azure nine Lozenges of the field (Dalrymple); 2nd grandquarter, Or a Chevron chequy Sable and Argent between three Water Bougets of the second (Ross); 3rd grandquarter, quarterly: 1st and 4th counterquartered: 1st and 4th, Gules three Cinquefoils Ermine; 2nd and 3rd, Argent a Galley sales furled Sable; the whole within a Bordure company Argent and Azure, the first charged with Hearts Gules and the second with Mullets Argent (Hamilton of Bargany); 2nd and 3rd, Gules on a Fess between three Crescents Or as many Mullets Azure (de Franquetot); 4th grandquarter, quarterly: 1st and 4th, Gules on a Chevron between three Cinquefoils Argent as many Round Buckles Azure (Hamilton of Fala); 2nd and 3rd, Gules three Martlets Argent (Makgill) Crest:A Rock proper Supporters:On either side a Stork holding in its beak a Fish all proper
創設時期1703年4月8日
創設者アン
貴族スコットランド貴族
初代2代子爵ジョン・ダルリンプル
現所有者14代伯ジョン・ダルリンプル英語版
相続人ダルリンプル子爵ジョン・ダルリンプル
付随称号ステア子爵
ダルリンプル子爵
グレンルース=ストランラー卿
ニューリストン卿
オクセンフォード男爵
現況存続
邸宅ケネディ城英語版
ロキッジ城英語版
モットー安定(Firm)

ステア伯爵: Earl of Stair)は、イギリスの貴族伯爵スコットランド貴族爵位。第2代ステア子爵ジョン・ダルリンプル1703年に叙位されたことに始まる。ダルリンプル家は、17世紀中葉に司法官僚を多数輩出して急速に勃興した一族である。

歴史

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法曹家一族としての勃興

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伯爵家の始祖ジェームズ・ダルリンプル英語版

ダルリンプル家はその歴史を中世にまで遡ることができるが、家格や財力の面において貴族に叙されるほどの家柄ではなかった[1]。そうした事情が一変したのはその祖ジェームズ・ダルリンプル英語版(1619-1695)の代で、彼が急速に司法官僚として栄達を遂げ貴族に叙せられることとなる。ダルリンプルはスコットランド民事控訴院長官英語版も務めた法曹家である一方、政治家としてはスコットランド議会英語版において王権宮廷の利益を擁護する立ち回りを演じている[1]。彼は1664年にノヴァスコシア準男爵位の(ステアの)準男爵英語版(Baronet, of Stair)を得たことを皮切りに、続く1690年4月21日にはスコットランド貴族ステア子爵(Viscount of Stair)及びグレンルース=ストランラー卿(Lord Glenluce=Stranraer)に叙せられて貴族に昇った[注釈 1][2][3]。一連の叙爵にはイングランド王国スコットランド王国合同に向けて政治力のある法曹家のダルリンプルを英政府の味方につける狙いがあったとされる[4]。なお、法曹官僚として活躍した者は彼のみならず、一族からは僅か18年の間に9名の代議士が輩出され、うち7名は法曹関係者(スコットランド民事控訴院長官英語版法務長官英語版経験者を含む)といったように、当時のスコットランド法曹界に大きな影響力を及ぼした[5]

伯爵家の成立

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初代伯爵(左)はグレンコーの虐殺に関与したため、ダルリンプル家の家名に泥を塗った。その嫌われぶりは、同家の紋章(右)に似る「ダイヤの9」が不吉の象徴とされるほどであった。

その息子である2代子爵ジョン(1648-1707)も一族の御多分に漏れず、法曹家として頭角を現して法務長官英語版民事控訴院主席書記官英語版を歴任したほか、名誉革命後の国王ウィリアム3世に仕えて筆頭国務大臣英語版を務めた[5][6]。彼は1703年4月8日にスコットランド貴族爵位のステア伯爵(Earl of Stair)ダルリンプル子爵(Viscount Dalrymple)ニューリストン、グレンルース及びストランラー卿(Lord Newliston, Glenluce and Stranraer)を与えられて、現在へと続く伯爵家の始祖となった[7][8]。ただし、彼は生前に自身の署名と指示の下、マクドナルド氏族の謀殺(グレンコーの虐殺)を行って悪名を馳せている[9]。ゆえにダルリンプル家の名にも傷がつき、スコットランドでは伯爵家の家紋と似るトランプの「ダイヤ9」が不吉の象徴とされるほどであった[10]

その子である2代伯ジョン(1679–1747)大同盟戦争スペイン継承戦争オーストリア継承戦争を転戦・従軍した武人である[11][12]。彼は甥に爵位を継がせようとしてノヴォダマスを行使し、ジョン・ダルリンプル[注釈 2]を後継者に指名した[13]。しかしこれにはジェームズ・ダルリンプルから異議を唱えられた結果、貴族院は1748年に「恐らく合同後は指名権が消滅した」と判示して、ジョンへの爵位継承を否定した[11][13][8]。この判決に基づき、以降はジェームズ(3代伯)、その兄ウィリアム(4代伯)が爵位を継いだ。4代伯には存命の男子がなかったため、結局は先述のジョンが5代伯となった[注釈 3][8]

5代伯とその子の6代伯ジョン(1749–1821)はともにスコットランド貴族代表議員に選出されている[8]。6代伯には子がなく、爵位は叔父の息子ジョンが継いだ。

7代伯ジョン(1784-1840)は私生活の面では結婚をめぐって裁判に巻き込まれた。彼はダイザート伯爵家英語版令嬢と結婚した際、事実婚状態であった女性から訴えられた[14]。1809年に事実婚の効力を認める判決が下り、7代伯は伯爵家令嬢と離婚する羽目になった[8][15]。彼は1840年に死去したが、その死とともに初代伯爵の系統が途絶えた[8]。以降は初代伯の弟サー・ジェームズ・ダルリンプル英語版(1615-1709)の子孫へと受け継がれ、サー・ジェームズの玄孫にあたるジョン・ダルリンプルが8代伯爵となった。この際に(クランストンの)準男爵英語版が伯爵位の従属爵位となっている[注釈 4][8]

8代伯ジョン(1771-1853)フランス革命戦争ナポレオン戦争に参戦して、陸軍大将にまで進んだ人物である[16]。彼は1841年8月11日に連合王国貴族としてミッドロジアン州コースランドのオクセンフォード男爵(Baron Oxenfoord, of Cousland in the County of Midlothian)を授けられた[17][18]。子はなかったものの男爵位には弟ノース1771-1864、9代伯)への特別継承権があり、次代へと繋ぐことができた[8][18]

その子の10代伯ジョン(1819-1903)は政治家・実業家として活動し、33年の長きにわたりスコットランド銀行総裁を務めている[8][19]。以降もこの流れで続き、その子ジョン英語版1879-1961、12代伯)、同名の息子ジョン英語版(13代伯)が爵位を継いだ[8]

13代伯ジョン(1906-1996)は陸軍軍人であった傍ら、1928年サンモリッツ冬季オリンピックボブスレー競技で出場するなどの活躍を見せた[20]

その息子にあたる14代伯ジョン(1961-)が伯爵家現当主である。彼は2008年に互選を経て、貴族院における世襲貴族枠92議席の一人に選ばれている[21]


伯爵家の邸宅には、スコットランドミッドロージアンに位置するオクセンフォード城英語版ダンフリーズ=ギャロウェイに臨むロキッジ城英語版がある。

現当主の保有爵位

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現当主である第14代ステア伯爵ジョン・ダルリンプル英語版は以下の爵位を有する[8]

  • 第14代ステア伯爵(14th Earl of Stair)
    1703年4月8日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第15代ステア子爵(15th Viscount of Stair)
    1690年4月21日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第14代ダルリンプル子爵(14th Viscount Dalrymple)
    (1703年4月8日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第15代グレンルース=ストランラー卿(15th Lord Glenluce and Stranraer)
    (1690年4月21日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第14代ニューリストン、グレンルース及びストランラー卿(14th Lord Newliston, Glenluce and Stranraer)
    (1703年4月8日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第7代ミッドロジアン州コースランドのオクセンフォード男爵(7th Baron Oxenfoord, of Cousland in the County of Midlothian)
    1841年8月11日の勅許状による連合王国貴族爵位)
  • 第15代(ステアの)準男爵英語版(15th Baronet, styled "of Stair")
    1664年6月2日の勅許状によるスコットランド準男爵位)
  • 第11代(クランストンの)準男爵英語版(11th Baronet, styled "of Cranstoun")
    1698年4月28日の勅許状によるスコットランド準男爵位)

一覧

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ステア子爵(1690年)

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ステア伯爵(1703年)

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オーストリア継承戦争下のデッティンゲンの戦いに臨む第2代ステア伯爵

爵位の法定推定相続人は、現当主の息子であるダルリンプル子爵(儀礼称号)ジョン・ジェームズ・トマス・ダルリンプル[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 初代子爵に限らず、彼の次男、三男、五男もまた準団爵位を与えられている。この系統の中にはやがてステア伯爵位を継承する子孫も現れたため、該当する準男爵位も従属爵位となっていく。
  2. ^ ジョン・ダルリンプルは2代伯の末弟の子にあたる。なお後述するジェームズ・ダルリンプルは2代伯の次弟の二男にあたる。
  3. ^ 4代伯はステア伯位を継いだ際、すでに母からダンフリーズ伯爵英語版も相続していた。彼の死後、ダンフリーズ伯爵位は4代伯の姉妹の男子が継ぎ、現在はビュート侯爵家へと流れていった。
  4. ^ サー・ジェームズ・ダルリンプル英語版は民事控訴院首席書記官を務めた法曹関係者で、彼自身1698年に(クランストンの)準男爵を得ていた。玄孫に当たるジョンはすなわち5代準男爵である。

出典

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  1. ^ a b 松園(2015) p.75
  2. ^ Heraldic Media Limited. “Stair, Viscount of (S, 1690)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2021年11月76日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月22日閲覧。
  3. ^ Cokayne (1896), p. 222.
  4. ^ 松園(2015) p.74-75
  5. ^ a b 松園(2015) p.76
  6. ^ Young, John R. (23 September 2004) [2004]. "Dalrymple, John, first earl of Stair". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/7052 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  7. ^ Cokayne (1896), p. 223.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l Heraldic Media Limited. “Stair, Earl of (S, 1703)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2021年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月22日閲覧。
  9. ^ 小林 照夫17世紀のスコットランドの宗教と政治―イングランドとの比較研究』(pdf)関東学院大学,文学部人文学会〈関東学院大学文学部紀要 第119号〉、2010年、86頁https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=NI20000887&elmid=Body&fname=kobayashi.pdf&loginflg=on&block_id=_296&once=true 
  10. ^ スレイター, スティーヴン 著、朝治 啓三 訳『【図説】紋章学事典』(第1版)創元社、2019年9月30日、186頁。ISBN 978-4-422-21532-7 
  11. ^ a b Cokayne (1896), p. 224.
  12. ^ Stephens, H. M. revised by William C. Lowe (23 September 2004) [2004]. "Dalrymple, John, second earl of Stair". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/7053 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  13. ^ a b Paul, James Balfour, Sir, ed. (1911). The Scots Peerage (英語). Vol. VIII. Edinburgh: David Douglas. pp. 149–150, 154–155.
  14. ^ Scott, Sir William (16 July 1811), Dalrymple v. Dalrymple (英語), pp. 665–682
  15. ^ Murry, J. Middleton; Mantz, Ruth Elvish (1933). The Life of Katherine Mansfield (英語). Constable and Company. pp. 20–21.
  16. ^ Henderson, Thomas Finlayson; Stearn, Roger T. (23 September 2004). "Dalrymple, John Hamilton Macgill, eighth earl of Stair". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/7058 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  17. ^ Cokayne (1896), p. 227.
  18. ^ a b "No. 20007". The London Gazette (英語). 13 August 1841. p. 2072.
  19. ^ University of Glasgow :: Story :: Biography of John Hamilton Dalrymple 10th Earl of Stair”. www.universitystory.gla.ac.uk. 2022年3月29日閲覧。
  20. ^ "John, Earl of Stair Olympic Results". Sports-Reference.com. Sports Reference LLC. 2018年4月5日閲覧
  21. ^ The Earl of Stair” (英語). MPs and Lords. House of Lords. 2022年3月29日閲覧。
  22. ^ Castle Kennedy | Lochinch Castle | The Castles of Scotland, Coventry | Goblinshead” (英語). www.thecastlesofscotland.co.uk. 2022年3月29日閲覧。
  23. ^ Historic Environment Scotland. "Oxenfoord Castle (GDL00307)". 2022年3月29日閲覧

参考文献

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関連項目

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