スタンリー・ケッチェル
基本情報 | |
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本名 | Stanislaus Kiecal |
通称 | The Michigan Assassin |
階級 | ミドル級 |
身長 | 175cm |
国籍 | アメリカ合衆国 |
誕生日 | 1886年9月14日 |
出身地 | ミシガン州グランドラピッズ |
死没日 | 1910年10月15日(24歳没) |
死没地 | ミズーリ州 |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 64 |
勝ち | 55 |
KO勝ち | 49 |
敗け | 4 |
引き分け | 5 |
スタンリー・ケッチェル(Stanley Ketchel、1886年9月14日 - 1910年10月15日)は、アメリカ合衆国出身の元プロボクサー。本名はスタニスラウス・キーカル (Stanislaus Kiecal)。元世界ミドル級チャンピオン。
来歴
[編集]ポーランド系移民。ミシガン州グランドラピッズの貧しい農家に生まれる。14歳の時故郷を捨て、放浪生活に入る。流れ着いたモンタナ州で酒場の用心棒になり、喧嘩に明け暮れた。1904年、17歳でプロのリングに上がるようになり、ハンサムな容貌に似ない獰猛なファイトで連戦連勝。
強豪ジョー・トーマス[要曖昧さ回避]を三度破った1907年からチャンピオンを自称、1908年5月、ジャック・サリバンに20回KO勝ちを収め世界ミドル級チャンピオンと認められた(ただし、王座獲得のタイミングには複数の異説あり)。
以後三度防衛したが、1908年9月7日、“イリノイの雷”ビリー・パプケとの防衛戦で、初回の開始ゴング直後にグローブを合わせようとしたところにパプケの不意打ちを浴びダウン、そのダメージが回復しないまま、12回で王座を奪われてしまう。
1908年11月26日、ケッチェルは挑戦者として王者パプケと対戦した。11回に左ボディの一撃で止めを刺すまで、得意の強打でパプケを徹底的に痛めつけた。王座奪還である。その後も再度パプケの挑戦を受けたが、判定で退けている。
1909年には元世界ライトヘビー級王者フィラデルフィア・ジャック・オブライエンと2度対戦、1度目は分の良い無判定、2度目は3回KOと、この一階級上のテクニシャンを圧倒した。
そして1909年10月16日、ケッチェルは白人社会の憎悪を一身に浴びていた無敵の黒人王者、ジャック・ジョンソンの王座に挑んだ。ジョンソン退治の“刺客”として白人の期待を集めたケッチェルは、12回、得意の右でジョンソンをダウンさせるが、思わぬ不覚に怒ったジョンソンの強烈な右アッパーを浴び、前歯二本を失う凄絶なKO負けを喫した。
1910年、再起したケッチェルはジョンソンが再戦を避けた強豪サム・ラングフォードと対戦、分の良い無判定に持ち込んだ。
1910年10月15日、ミズーリ州の牧場に滞在していたケッチェルは、そこで働く女性にちょっかいを出し(ジョー小泉はレイプしたのではないかと推測している[1])、その内縁の夫に射殺された。
なお、マーク・ロブソン監督の名画「チャンピオン」で、若き日のカーク・ダグラスが演じた酷薄な主人公ミッジ・ケリーは、ケッチェルがモデルであると言われている。
スタイル
[編集]近代ボクシング草創期の選手でもあり、パンチは単発でラフなファイトぶりだが、55勝49KOという高いKO率は、早い段階でのレフェリー・ストップがなく、しかもコンビネーション・ブローの技術も発達していなかった時代にあっては驚異的と言え、その強打の破壊力が窺える。
ケッチェルの得意技に「ケッチェル・シフト」がある。右パンチをわざと空振りし、大きく前にのめりながら右足を踏み出し、その姿勢から身体の逆回転と体重移動を最大限に効かせ、左ボディをみぞおちに叩き込む。これで幾多の敵がマットに沈んだ。
通算戦績
[編集]64戦55勝49KO4敗5引分け
脚注
[編集]- ^ ボクシング珍談奇談