スタンディッシュ・バッカス
スタンディッシュ・バッカス・ジュニア Standish Backus, Jr. | |
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軍服姿のバッカス(1946年)[1] | |
生誕 |
1910年[1] アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト[1] |
死没 |
1989年[1] アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタバーバラ[1] |
国籍 | アメリカ合衆国 |
教育 | ミュンヘン大学 |
著名な実績 | 従軍画家として終戦後の日本を記録 |
影響を受けた 芸術家 | エリオット・オハラ[1] |
スタンディッシュ・バッカス・ジュニア(Standish Backus, Jr.、1910年–1989年)は、アメリカ合衆国の画家。1945年から1946年に従軍画家として、第二次世界大戦末期から占領下の日本を絵の題材にした。
来歴
[編集]1910年、ミシガン州デトロイトに生まれた[1]。プリンストン大学で建築学の学位を取得後、ドイツに留学し、ミュンヘン大学で1年間絵画を学んだ。帰国後、メイン州でエリオット・オハラのもと短期間水彩画を学んだ後、1935年にサンタバーバラに移り、1930年代のカルフォルニア州で水彩画家として名声を得た[1]。
第二次世界大戦開戦後、バッカスは1940年にアメリカ海軍の予備少尉として召集され、1941年に現役の士官に就任した。彼は戦争のほとんどを、南太平洋の防衛に従軍した。1945年には海軍軍事局に異動し、絵画情報特別班(special graphic presentation unit)に異動し、太平洋戦線の最後の年を従軍画家として過ごした[1]。終戦までに、彼は司令官の階級に昇進した。終戦後は日本を訪れ、横須賀や呉、原爆投下直後の広島を描いた。1946年5月に中佐で退役[1]し、1947年から1948年までカリフォルニア大学サンタバーバラ校で教鞭をとった。
1955年から1956年に現役に戻り、ディープフリーズ作戦の一環としてリチャード・バード提督の南極大陸調査に同行し、南極の記録画を描いた[1]。
退役後、バッカスはカリフォルニアに戻り、再びサンタバーバラ校で教鞭をとりつつ、絵を描き続けた。彼は1989年にサンタバーバラで亡くなった[1]。バッカスの作品は、サンタバーバラ美術館やロサンゼルス・カウンティ美術館、海軍歴史センターに収蔵されている。
主な作品
[編集]海軍歴史センターに収蔵された水彩画は、アメリカ合衆国政府の著作物としてパブリックドメインとなり、公開されている。
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『死後の横須賀』(1945年)
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『天皇の巡洋艦青葉』(1945年)
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『広島、1945年』(1945年)
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『広島、静物』(1946年)
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『秋、広島の庭』(1946年)
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『広島、赤十字病院にて』(1946年)
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『アメリカ占領下の横須賀飛行場と東京湾』(1946年)
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『これは日向だった』(1946年)
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『伊勢は日向の姉妹艦だった』(1946年)
出典
[編集]関連項目
[編集]- 吉田初三郎 - 日本の鳥瞰図画家。原爆投下直後の広島市へ入り、5ヶ月におよぶ取材で被爆者300余名からの証言を得て、原爆八連図「HIROSHIMA」を描いた。
- 深水経孝 - 長崎要塞司令部勤務中に長崎市への原子爆弾投下に遭遇。原爆投下直後の惨状を描いた画集『崎陽のあらし』を描いた。1951年に没後、1982年(原爆絵巻「崎陽のあらし」を出版する会)と2003年(人吉高校英語研究会・編、草の根出版会、ISBN 4876481865)に書籍化された。
- 原爆の絵運動 - 被爆者自身による、原爆投下時の記録画を描く運動。