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スタンディッシュ・バッカス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スタンディッシュ・バッカス・ジュニア
Standish Backus, Jr.
軍服姿のバッカス(1946年)[1]
生誕 1910年[1]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト[1]
死没 1989年[1]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタバーバラ[1]
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
教育 ミュンヘン大学
著名な実績 従軍画家として終戦後の日本を記録
影響を受けた
芸術家
エリオット・オハラ英語版[1]

スタンディッシュ・バッカス・ジュニア(Standish Backus, Jr.、1910年–1989年)は、アメリカ合衆国画家。1945年から1946年に従軍画家として、第二次世界大戦末期から占領下の日本を絵の題材にした。

来歴

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1910年、ミシガン州デトロイトに生まれた[1]プリンストン大学建築学の学位を取得後、ドイツに留学し、ミュンヘン大学で1年間絵画を学んだ。帰国後、メイン州エリオット・オハラ英語版のもと短期間水彩画を学んだ後、1935年にサンタバーバラに移り、1930年代のカルフォルニア州で水彩画家として名声を得た[1]

第二次世界大戦開戦後、バッカスは1940年にアメリカ海軍の予備少尉として召集され、1941年に現役の士官に就任した。彼は戦争のほとんどを、南太平洋の防衛に従軍した。1945年には海軍軍事局に異動し、絵画情報特別班(special graphic presentation unit)に異動し、太平洋戦線の最後の年を従軍画家として過ごした[1]。終戦までに、彼は司令官の階級に昇進した。終戦後は日本を訪れ、横須賀原爆投下直後の広島を描いた。1946年5月に中佐で退役[1]し、1947年から1948年までカリフォルニア大学サンタバーバラ校で教鞭をとった。

1955年から1956年に現役に戻り、ディープフリーズ作戦英語版の一環としてリチャード・バード提督の南極大陸調査に同行し、南極の記録画を描いた[1]

退役後、バッカスはカリフォルニアに戻り、再びサンタバーバラ校で教鞭をとりつつ、絵を描き続けた。彼は1989年にサンタバーバラで亡くなった[1]。バッカスの作品は、サンタバーバラ美術館英語版ロサンゼルス・カウンティ美術館、海軍歴史センターに収蔵されている。

主な作品

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海軍歴史センターに収蔵された水彩画は、アメリカ合衆国政府の著作物としてパブリックドメインとなり、公開されている。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l Standish Backus”. Naval History and Heritage Command. 2023年4月16日閲覧。

関連項目

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  • 吉田初三郎 - 日本の鳥瞰図画家。原爆投下直後の広島市へ入り、5ヶ月におよぶ取材で被爆者300余名からの証言を得て、原爆八連図「HIROSHIMA」を描いた。
  • 深水経孝 - 長崎要塞司令部勤務中に長崎市への原子爆弾投下に遭遇。原爆投下直後の惨状を描いた画集『崎陽のあらし』を描いた。1951年に没後、1982年(原爆絵巻「崎陽のあらし」を出版する会)と2003年(人吉高校英語研究会・編、草の根出版会、ISBN 4876481865)に書籍化された。
  • 原爆の絵運動 - 被爆者自身による、原爆投下時の記録画を描く運動。