コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジョー・キニアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョー・キニアー
ニューカッスル監督時代(2009年)
名前
本名 ジョセフ・パトリック・キニアー
Joseph Patrick Kinnear
ラテン文字 Joe Kinnear
基本情報
国籍 アイルランドの旗 アイルランド
生年月日 (1946-12-27) 1946年12月27日
出身地 ダブリン
没年月日 (2024-04-07) 2024年4月7日(77歳没)
選手情報
ポジション DF(RB)
ユース
1964-1965 イングランドの旗 セント・オールバンズ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1965-1975 イングランドの旗 トッテナム 196 (2)
1975-1976 イングランドの旗 ブライトン 16 (1)
通算 212 (3)
代表歴2
1967-1975 アイルランドの旗 アイルランド 26 (0)
監督歴
1983 アラブ首長国連邦の旗 アル・シャバーブ (アシスタント)
1984 インドの旗 インド
1987 ネパールの旗 ネパール
1989 イングランドの旗 ドンカスター (暫定監督)
1992-1999 イングランドの旗 ウィンブルドン
2001-2003 イングランドの旗 ルートン
2004 イングランドの旗 ノッティンガム
2008-2009 イングランドの旗 ニューカッスル
1. 国内リーグ戦に限る。2020年11月10日現在。
2. 2020年11月10日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジョセフ・パトリック・キニアーJoseph Patrick Kinnear, 1946年12月27日 - 2024年4月7日)は、アイルランドダブリン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF

現役時代

[編集]

トッテナム時代

[編集]

1965年にビル・ニコルソン率いるトッテナム・ホットスパーFCに加入。1966年4月にデビューを果たす。1966-67シーズンにリーグ20試合に出場、FAカップ優勝に貢献する。以降右サイドバックのレギュラーに定着。1971年、1973年のリーグカップ優勝、1972年のUEFAカップ初代王者に貢献した。

10年に渡りトッテナムでプレー、左サイドバックのシリル・ノウルズと共に印象的なサイドバックコンビを形成した。

その後

[編集]

ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCに所属していた1976年に30歳の若さで現役を引退した。

アイルランド代表

[編集]

1967年よりアイルランド代表に招集され、1975年までの間に26試合に出場した。

監督時代

[編集]

アジアでの監督時代

[編集]

1983年にトッテナム・ホットスパーFC時代のチームメイトであるデイヴ・マッケイが指揮するアル・シャバーブでアシスタントコーチとして指導者の道を歩む。

その後サッカーインド代表サッカーネパール代表を指揮したのち、ドンカスター・ローヴァーズFCでマッケイのアシスタントに復帰した。マッケイが辞任した後には暫定監督に就任した。

ウィンブルドン時代

[編集]

1992年にピーター・ウィズの後任としてウィンブルドンFCの監督に就任した。1993-94シーズンにはウィンブルドンをプレミアリーグ6位に導き、LMA年間最優秀監督賞に輝く。また、このシーズンだけでプレミアリーグ月間最優秀監督に3度選ばれた。

1996年にはジャッキー・チャールトンの後任としてサッカーアイルランド代表の監督へ就任するチャンスを得たが、ウィンブルドンに残留した。1996-97シーズンはFAカップリーグカップの両方でベスト4に導いた。また、このシーズンの9月には2年ぶりに月間最優秀監督に選ばれた。

1999年3月に心臓発作を起こすまで監督を務め、シーズン終了後の6月に正式にウィンブルドンの監督を退任した。ウィンブルドンがプレミアリーグに所属した8シーズンのうち7シーズンが自身が指揮した期間だった。

翌1990-2000シーズン、キニアーを失ったウィンブルドンは2部降格、2004年にクラブは消滅する結末を辿った。

ルートン時代

[編集]

ウィンブルドンの監督を退任後、レスター・シティFCシェフィールド・ウェンズデイFCの監督への就任が噂されたが、実現はしなかった。2000-01シーズンにオックスフォード・ユナイテッドFCのフットボールディレクターを短期間務めた後、2001年にルートン・タウンFCの監督に就任した。

2001-02シーズンはチームの4部リーグ2位、昨シーズン降格したチームを1年での3部復帰へと導いた。翌2002-03シーズンは2部昇格を目指したが、9位に終わり、シーズン終了後に解任された。

ノッティンガム時代

[編集]

2004年2月に2部所属のノッティンガム・フォレストFCの監督に就任。2003-04シーズン、残留を争っていたチームを14位まで引き上げることに成功した。翌2004-05シーズンはプレミアリーグ昇格の期待がかかっていたが、開幕から低調なスタートを切り、2004年12月に監督を辞任した。その後ノッティンガムは3部に降格した。

ニューカッスル時代

[編集]

ノッティンガムの監督を辞任して以降4年間どこの監督にも就かずにいたが、2008年9月、ケビン・キーガンが解任されたニューカッスル・ユナイテッドFCの暫定的な監督に就任した。プレミアリーグのチームの指揮はおよそ10年ぶりのことだった。

指揮後のエヴァートンFCマンチェスター・シティFCとの試合では引き分けに終わったが、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCとの一戦では刑務所帰りのジョーイ・バートンのゴールで勝利。当時リーグ5位のアストン・ヴィラFCにも勝利し、降格圏から脱出に導いた。11月28日に2008-09シーズンの終わりまでの契約で正式に監督に就任した。

2009年2月、体調不良で病院に運ばれると、以降の指揮はアシスタントコーチのクリス・ヒュートンが代行した。その後、入院して手術を受ける必要があったことから正式に監督を辞任。ニューカッスルの監督にはアラン・シアラーが就任した。

その後2013年6月から2014年2月まで、ニューカッスルのフットボールディレクターを務めた。

2024年4月7日の午後に死去[1]。77歳没[2]

タイトル

[編集]

現役時代

[編集]
トッテナム
  • FAカップ:1966-67
  • FAチャリティ・シールド:1967
  • リーグカップ:1970-71,1972-73
  • UEFAカップ:1971-72

監督時代

[編集]
  • LMA年間最優秀監督賞:1994
  • プレミアリーグ月間最優秀監督:1993年9月,1994年3月,1994年4月,1996年9月

脚注

[編集]
  1. ^ キニアー氏が死去 元ニューカッスル指揮官」『AFPBB News』2024年4月8日。2024年4月8日閲覧。
  2. ^ Ho, Vivian (2024年4月7日). “Joe Kinnear, former Tottenham player and Wimbledon manager, dies aged 77” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077. https://www.theguardian.com/football/2024/apr/07/joe-kinnear-former-tottenham-player-and-wimbledon-manager-dies-aged-77 2024年4月8日閲覧。 

外部リンク

[編集]