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ジョヴァンニ・マリーア・モランディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョヴァンニ・マリーア・モランディ
Giovanni Maria Morandi
自画像
生誕 (1622-04-30) 1622年4月30日
フィレンツェ
死没 1717年2月18日(1717-02-18)(94歳没)
ローマ
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ジョヴァンニ・マリーア・モランディ(Giovanni Maria Morandi、1622年4月30日 - 1717年2月18日)は、バロック期のイタリアの画家である。祭壇画や肖像画を描いた。

略歴

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フィレンツェで生まれた。フィレンツェの画家オラツィオ・フィダーニ(Orazio Fidani: 1610-1656)とジョヴァンニ・ビリヴェルティ(1585-1644)の弟子になった[1] 。1640年代の終わりか1650年代の初めにローマに移ったので、フィレンツェ時代に描いたモランディの作品は少ないがサン・フィオレンツォ教会(Chiesa di San Fiorenzo)にキリストを描いた作品のあったことが18世紀半ばの書籍で言及されている。

生涯の大半をローマで過ごし、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会(Chiesa di Santa Maria della Pace)やサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会(Chiesa di Santa Maria in Vallicella)などに祭壇画を描き、ローマのトラステヴェレにあるサルヴィアティ宮殿(Palazzo Salviati)に神話を題材にした壁画を描いた。

アカデミア・ディ・サン・ルカの会員となり、1671年に1年任期の会長も務めた。ローマの芸術家のアカデミー(Accademia dell'Arcadia:1690年設立)の会員にもなった[2]。ローマで人気のある工房を開き、弟子にはフランチェスコ・ツッカレリやフランチェスコ・コンティ、オドアルド・ヴィチネッリ、ピエトロ・ネッリらがいた。

パトロンには神聖ローマ皇帝レオポルト1世やローマ教皇アレクサンデル7世がいて、アレクサンデル7世の出身のシエナの名家キージ家からも支援を受けた。シエナのサンタ・マリア・デッラ・スカラ救済院(Complesso museale di Santa Maria della Scala)やシエナ大聖堂にも作品を描いた。

1717年2月18日にローマで死去した。

作品

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脚注

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  1. ^ Luigi Lanzi, History of Painting in Italy; From the Period of the Revival of the Fine Arts to the End of the Eighteenth Century, Vol.1, pg.214, Thomas Roscoe (translator), Henry G. Bohn, 1847
  2. ^ Giovanni Mario Crescimbeni, Istoria della volgar poesia (1698). Reprinted by the Nabu Press (2011) ISBN 978-1-270-99142-7

参考文献

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  • E. Waterhouse, "A note on Giovanni Maria Morandi", in Studies in Renaissance and Baroque art presented to Anthony Blunt on his 60th birthday, London-New York 1967, pp. 117-121. ISBN 978-0-7148-1320-2
  • F. Petrucci, "Sull'attività ritrattistica di Giovanni M. Morandi", in Labyrinthos, #33/34, 1998, pp. 131-174.
  • G. De Luca, "Vicende di un dipinto di Giovanni Maria Morandi per il Duomo di Siena", in Prospettiva, #138, 2010, pp. 58–67.