ジョン・M・ラウンジ
ジョン・マイケル・ラウンジ John Michael "Mike" Lounge | |
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NASA所属宇宙飛行士 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
現況 | 死去 |
生誕 |
1946年6月28日 コロラド州デンバー |
死没 | 2011年3月1日 (64歳没) |
他の職業 | 技術者 |
宇宙滞在期間 | 20日02時間23分 |
選抜試験 | 1980 NASA Group |
ミッション | STS-51-I, STS-26, STS-35 |
記章 |
ジョン・M・ラウンジ(John Michael "Mike" Lounge、1946年6月28日-2011年3月1日)は、アメリカ合衆国の技術者、アメリカ海軍の軍人、アメリカ航空宇宙局の宇宙飛行士である。スペースシャトルで3度の宇宙飛行を経験し、482時間以上を宇宙で過ごした。1985年のSTS-51-Iと1988年のSTS-26ではミッションスペシャリスト、1990年のSTS-35ではフライトエンジニアを務めた。
生い立ち
[編集]ラウンジは1946年6月28日にコロラド州デンバーで生まれたが、バーリントンを故郷と考えている。1964年にバーリントン高校を卒業し、1969年に海軍兵学校で理学士号、1970年にコロラド大学ボルダー校で天文地球物理学の修士号を取得した。その後、米国航空宇宙学会でフェローを務めた。
軍事のキャリア
[編集]ラウンジは海軍兵学校を卒業するとアメリカ海軍に入隊し、その後の9年間様々な任務に就いた。フロリダ州ペンサコーラでの海軍飛行士の訓練を終え、続いてF-4のレーダー回避の訓練も受け、カリフォルニア州ミラマーに本拠地を置く第142戦闘機部隊に所属したと言われている。ここで彼は、航空母艦エンタープライズによる9ヶ月間の東南アジア遠征とアメリカによる7ヶ月間の地中海遠征に参加した。1974年、彼は物理学の教官として海軍兵学校に戻り、その後1976年にワシントンD.C.のNavy Space Project Officeに異動し、2年間勤務した。1978年に彼は海軍の士官を退役した。
NASAでのキャリア
[編集]ラウンジは1978年7月にジョンソン宇宙センターに雇用され、ここでスペースシャトル打上げ衛星の技術者やスカイラブの飛行制御チームとして働いた。
1980年に宇宙飛行士の候補に選ばれ、1年間の訓練と評価を終え、1981年8月に宇宙飛行士となった。STS-1、STS-2、STS-3では、ケネディ宇宙センターで打上げサポートのチームに加わった。最初の宇宙飛行後には、最初の低温燃料の開発に携わった。計画が中止されると、再び宇宙飛行の部署に戻り、1989年から1991年まで宇宙ステーションの運行計画に携わった。
NASA退職後のキャリア
[編集]ラウンジは1991年にNASAを退職し、SPACEHABに加わった。彼はNASAの退職について、「去るのはとても厳しい仕事だが、3度の宇宙飛行は私の公平な取り分で、新しいチャレンジへの用意はできている」と説明している[1]。
2002年には、ボーイング社のスペースシャトルと宇宙ステーション開発プログラムの責任者となった。また2年後には、防衛システムと宇宙探査の開発の責任者となった。
死去
[編集]2011年3月1日、ラウンジは肝臓癌由来の合併症で死去した[1]。故郷のバーリントンの18番通りの一部をコロラド州は「マイク・ラウンジ・ドライブ」と改名している。
出典
[編集]- ^ a b Pearlman, Robert Z. (1 March 2011) "Mike Lounge, Three-Time Shuttle Astronaut, Dies at 64". www.space.com. Retrieved 2 March 2011