ジョン・バセット・ムーア
ジョン・バセット・ムーア(John Bassett Moore, 1860年12月3日 - 1947年11月12日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、裁判官。合衆国における国際法の権威として、ハーグの常設仲裁裁判所および常設国際司法裁判所で裁判官を務めた。
生涯
[編集]1860年、ムーアはデラウェア州スミュルナにおいて、ジョン・A・ムーア (John A. Moore) とマーサ・A・ファーガソン (Martha A. Ferguson) の息子として誕生した。ムーアは1880年にバージニア大学を卒業し、1883年にデラウェア州で弁護士として認可を受けた。
ムーアは1885年から1886年まで国務省で法務書記を務め、1886年から1891年まで第三国務次官補を務めた。ムーアは1887年のサモア問題会議と1888年の漁業問題会議で主事を務めた。1891年、ムーアはコロンビア大学で国際法の初代正教授となった。ムーアは1924年まで同大学で教授職を務めた。
ムーアは1898年4月から9月まで国務次官補を務めた。米西戦争終戦後、ムーアは合衆国の和平委員会で主事を務め、フランスのパリにおいてスペインとの講和を協議した。
1904年、ムーアは合衆国とドミニカとの間の仲裁裁判所に、合衆国の代理人として出席した。1910年、ムーアはアルゼンチンのブエノスアイレスで開催された第4回パン・アメリカ会議に、合衆国代表として出席した。1910年、ムーアはチリの建国100周年記念祭典に、合衆国の特別全権公使として参加した。1912年、ムーアはブラジルのリオデジャネイロ市で開催された国際法律家委員会に、合衆国代表として出席した。ムーアは1912年から1938年まで、オランダのハーグで常設仲裁裁判所の裁判官を、1921年から1928年まで常設国際司法裁判所の裁判官を務めた。
著作物
[編集]- Reports on Extraterritorial Crime (1887)
- Extradition and Interstate Rendition (two volumes, 1891)
- American Notes on the Conflict of Laws (1896)
- History and Digest of International Arbitrations (6 vols., 1898)
- American Diplomacy (1905)
- Digest of International Law (8 vols., 1906)
- Works of James Buchanan (12 vols., 1909-11, reissued 1960)
- Four Phases of American Development (1912)
- International Law and Some Current Illusions (1924)
- The Permanent Court of International Justice (1924)
- International Adjudications, Ancient and Modern (8 vols., 1937)
- Collected Papers (7 vols., 1945)
公職 | ||
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先代 アルヴィー・エイディー |
アメリカ合衆国第三国務次官補 1886年8月6日 - 1891年9月30日 |
次代 ウィリアム・グリンネル |
先代 ウィリアム・デイ |
アメリカ合衆国国務次官補 1898年4月27日 - 1898年9月6日 |
次代 デイヴィッド・ジェイン・ヒル |
先代 チャンドラー・アンダーソン |
アメリカ合衆国国務省参事官 1913年4月23日 - 1914年5月4日 |
次代 ロバート・ランシング |