ジョン・ベレスフォード (第5代ウォーターフォード侯爵)
第5代ウォーターフォード侯爵ジョン・ヘンリー・ド・ラ・プア・ベレスフォード(英語: John Henry de la Poer Beresford, 5th Marquess of Waterford KP PC PC (Ire)、1844年5月21日 – 1895年10月23日)は、アイルランド貴族、イギリスの軍人、政治家。第1次ソールズベリー侯爵内閣期にバックハウンド管理長官を務めた。1859年から1866年までティロン伯爵の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
[編集]第4代ウォーターフォード侯爵ジョン・ド・ラ・プア・ベレスフォードとクリスティアナ・レズリー(Christiana Leslie、1905年5月19日没、チャールズ・ポウェル・レズリーの娘)の息子として、1844年5月21日にロンドンで生まれた[1]。イートン・カレッジで教育を受けた[1]。
1862年から1869年までライフガーズ第1連隊で士官を務めた[1]。
1865年イギリス総選挙でカウンティ・ウォーターフォード選挙区から選出され庶民院議員になり、1866年11月6日に父が死去するとウォーターフォード侯爵位を継承[1]、貴族院に移籍した。
1868年11月17日、聖パトリック勲章を授与された[2]。
1874年8月19日から1895年10月23日までウォーターフォード統監を務めた[3]。その後、1879年にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命され[4]、1885年6月27日に連合王国枢密院の枢密顧問官に任命され[5]、同日にバックハウンド管理長官にも任命された[6]。以降1886年2月17日まで同職を務めた[7]。
1876年時点でウォーターフォード県に39,883エーカーの、ウィックロー県に26,035エーカーの、キルケニー県に406エーカーの、キャバン県に305エーカーの、キルデア県に55エーカーの土地を所有し、土地からの年収は32,749ポンドだった[8]。領地の面積は1883年時点でも変わらず、土地からの年収も32,752ポンドとほとんど同じだった[1]。
1883年に狩猟中で事故を起こし、以降その怪我の痛みに長期間苦しんだ[1]。1895年10月23日にカラーモアで拳銃自殺し、息子ヘンリーが爵位を継承した[1]。自殺の理由は「一時的な精神異常」(temporary insanity)とされた[1]。
家族
[編集]1872年8月9日、フローレンス・グロヴナー・ローリー(Florence Grosvenor Rowley、1840年頃 – 1873年4月4日、ジョージ・ローリーの娘)と結婚した[4]。
- 死産(1873年3月31日) - フローレンスは死産の5日後に死去した
1874年7月21日、ブランシュ・エリザベス・アデレード・サマセット(Blanche Elizabeth Adelaide Somerset、1856年3月26日 – 1897年2月22日、第8代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットの娘)と再婚[1]、1男3女をもうけた[4]。
- ヘンリー・ド・ラ・プア(1875年 – 1911年) - 第6代ウォーターフォード侯爵
- メアリー(1877年4月30日 – 1877年5月31日)
- スーザン・ド・ラ・プア(1877年4月30日 – 1947年10月30日) - 1902年4月28日、ヒュー・ドーネイ閣下(Hon. Hugh Dawnay、1875年9月19日 – 1914年11月6日、第8代ダウン子爵ヒュー・ドーネイの息子)と結婚、子供あり
- クロダー・ド・ラ・プア(Clodagh de la Poer、1879年8月6日 – 1957年4月17日) - 1901年2月27日、クロード・アンソン(Claud Anson、1947年12月25日没、第2代リッチフィールド伯爵トマス・アンソンの息子)と結婚、子供あり
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward, ed. (1898). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (U to Z, appendix, corrigenda, occurrences after 1 January 1898, and general index to notes, &c.) (英語). Vol. 8 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 72–73.
- ^ "No. 7906". The London Gazette (英語). 27 November 1868.
- ^ Sainty, John Christopher (September 2005). "Lieutenants and Lords-Lieutenants (Ireland) 1831-". Institute of Historical Research (英語). 2018年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月21日閲覧。
- ^ a b c "Waterford, Marquess of (I, 1789)". Cracroft's Peerage (英語). 28 June 2015. 2020年10月21日閲覧。
- ^ "No. 25485". The London Gazette (英語). 30 June 1885. p. 2987.
- ^ "No. 25485". The London Gazette (英語). 30 June 1885. p. 3000.
- ^ "No. 25561". The London Gazette (英語). 23 February 1886. p. 848.
- ^ De Burgh, U. H. Hussey (1878). The Landowners of Ireland (英語). Dublin: Hodges, Foster, and Figgis. p. 468.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the 5th Marquess of Waterford
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ジョン・エスモンド ウォルター・セシル・タルボット閣下 |
庶民院議員(カウンティ・ウォーターフォード選挙区選出) 1865年 – 1866年 同職:ジョン・エスモンド |
次代 ジョン・エスモンド エドモンド・ド・ラ・プア |
公職 | ||
先代 コーク伯爵 |
バックハウンド管理長官 1885年 – 1886年 |
次代 サフィールド男爵 |
名誉職 | ||
先代 サー・リチャード・マスグレイヴ準男爵 |
ウォーターフォード統監 1874年 – 1895年 |
次代 デヴォンシャー公爵 |
アイルランドの爵位 | ||
先代 ジョン・ベレスフォード |
ウォーターフォード侯爵 1866年 – 1895年 |
次代 ヘンリー・ベレスフォード |