ジョン・スタンヤン・ビッグ
ジョン・スタンヤン・ビッグ(英語: John Stanyan Bigg、1828年7月14日 – 1865年5月19日)は、イギリスの詩人、ジャーナリスト。痙攣派に属する[1]。
生涯
[編集]生地屋のジョン・ゴレル・ビッグ(John Gorell Bigg、1795年洗礼 – 1868年)とアン・マウント(Ann Mount、1803年洗礼 – 1855年)の息子として[2]、1828年7月14日にアルヴァーストンで生まれ、同地のタウン・バンク・グラマースクールで教育を受けた[1]。『千夜一夜物語』を読んで文学に興味を持ち、同書の内容をたびたび友人に朗読したほか、イギリスの詩人の著作にも興味を持った[1]。13歳のときにウォリックシャーのボーディングスクールに進学した[1]。3年後に卒業すると[2]、はじめ父の仕事を手伝ったが、直後にペニー・ブリッジに転居、そこで多くの詩作を著した[1]。
アルヴァーストンに戻った後、1848年に最初の作品The Sea King(6編構成の韻文詩で、ロマン主義の作品)を出版した[1]。英国人名事典によると、この作品はシャロン・ターナーの『アングロ・サクソン人の歴史』を研究した成果とされ、フリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』と類似するコンセプトであるが、ビッグ自身はThe Sea Kingを著する時点で『ウンディーネ』を読んだことがなかったと述べている[1]。いずれにせよ、The Sea Kingはジェームズ・モントゴメリや初代準男爵サー・エドワード・ブルワー=リットンなど同時代の文人に注目された[1]。
The Sea Kingの後、ビッグは『アルヴァーストン・アドヴァタイザー』(Ulverston Advertiser)の編集者を数年間務め、続いて1854年にアイルランドに向かい、『ダウンシャー・プロテスタント』誌(Downshire Protestant)の編集者を数年間を務めた[1]。同1854年にNight and the Soulという詩作を著した[1]。この詩作はまず『クリティック』誌で発表され、続いてアメリカでも出版されたが、同作によりビッグは痙攣派に属すると分類されるようになった[2]。同作は評論家ジョージ・ギルフィランに称えられ、ビッグは将来有望とされたが、数か月後にウィリアム・エドマンドストン・エイトンが痙攣派を風刺する『フィルミリアン』(Firmilian、悲劇)を発表すると、ビッグの名声は地に落ち、ギルフィランも文学評論家としての影響力を失った[2]。
1856年6月30日にローズ・アン・ハート・プリダム(Rose Anne Hart Pridham、1830年洗礼 – 1909年)と結婚、3男をもうけた[2]。1859年にロバート・バーンズ(1759年 – 1796年)誕生100年記念が祝われたとき、クリスタル・パレス賞(Crystal Palace prize)に向けて自作の頌歌を提出、審査員が選出する6作品のうちの1作に含まれるという結果になった[1]。
1860年にアイルランドを離れて故郷アルヴァーストンに戻り、以降死去するまで『アルヴァーストン・アドヴァタイザー』の編集者を務めた[1]。同年に小説『アルフレッド・ストーントン』(Alfred Staunton、1巻)を出版し、『アルフレッド・ストーントン』は好評を博した[1]。1862年に詩集Shifting Scenes, and other Poemsを出版したが[1]、評論家から興味を持たれず、ジェームズ・ハンネイが1866年に「痙攣派は流派としてはもはや存在しない」と評するに至った[2]。ほかにも『クォータリー・レビュー』、『エクレティック・レビュー』、『ダブリン大学マガジン』など多くの文学誌に寄稿した[1]。
1865年5月19日にアルヴァーストンで死去した[2]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o Smith, George Barnett (1886). . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 5. London: Smith, Elder & Co. pp. 19–20.
- ^ a b c d e f g Mullin, Katherine (8 October 2020) [2004]. "Bigg, John Stanyan". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/2369。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)