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ジョン・ウォード (第2代ダドリー=ウォード子爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・シングルトン・コプリーによる肖像画、1780年代。

第2代ダドリー=ウォード子爵ジョン・ウォード英語: John Ward, 2nd Vicount Dudley and Ward1725年2月22日1788年10月10日)は、イギリスの貴族、政治家。トーリー党所属[1]

生涯

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初代ダドリー=ウォード子爵ジョン・ウォードとアンナ・マリア・バウチャー(Anna Maria Bourchier、1725年12月12日没、チャールズ・バウチャーの娘)の息子として、1725年2月22日に生まれた[2]。1743年2月7日にオックスフォード大学オリオル・カレッジに入学、1745年12月10日にM.A.の学位を修得した[3]

1754年イギリス総選挙マールバラ選挙区英語版から出馬して当選、1761年イギリス総選挙ウスターシャー選挙区英語版に鞍替えして再選した[1]。議会ではビュート伯爵内閣グレンヴィル内閣チャタム伯爵内閣を支持、第1次ロッキンガム侯爵内閣に反対したが、グレンヴィル内閣期にあたる1764年にウスターシャーの利益を代表して、サイダー税法英語版の廃止法案に賛成した[1]。1774年5月6日に父が死去すると、ダドリー=ウォード子爵の爵位を継承した[2]。その後は貴族院ノース内閣を支持した[1]

1769年7月3日、ケンブリッジ大学よりLL.D.の学位を授与された[2]

1788年10月10日にヒムリー英語版で死去、同地で埋葬された[2]。異母弟ウィリアムが爵位を継承した[2]

家族

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1788年7月15日、メアリー・フェア(Mary Fair、1810年5月24日埋葬、ガマリエル・フェアの娘)と結婚した[2][4]

出典

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  1. ^ a b c d Drummond, Mary M. (1964). "WARD, Hon. John (1725-88).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年10月19日閲覧
  2. ^ a b c d e f Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 488.
  3. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (英語). Vol. 4. Oxford: University of Oxford. p. 1498.
  4. ^ "Dudley and Ward, Viscount (GB, 1763 - 1833)". Cracroft's Peerage (英語). 2019年10月19日閲覧
グレートブリテン議会英語版
先代
ジョン・タルボット
サー・ジョン・ハインド・コットン準男爵英語版
庶民院議員(マールバラ選挙区英語版選出)
1754年 – 1761年
同職:サー・ジョン・ハインド・コットン準男爵英語版
次代
ブルーデネル卿
ロバート・ブルーデネル英語版
先代
ジョン・バークリー・コヴェントリー
エドマンド・ピッツ
庶民院議員(ウスターシャー選挙区英語版選出)
1761年 – 1774年
同職:ウィリアム・ダウズウェル
次代
ウィリアム・ダウズウェル
エドワード・フォーリー英語版
グレートブリテンの爵位
先代
ジョン・ウォード
ダドリー=ウォード子爵
1774年 – 1788年
次代
ウィリアム・ウォード